[継続中]
2024/9/10
若き日は 健康無視して 働けり
老いました 健康第一に生活し
👍 全く同感です
退院し ケーキを食べて 帰りけり
👍 ケーキは私にとっては有毒です💦
👀 (次の句はよくわかりませんが語呂がよいので)
抗がん剤 いろはにほへと ちりぬるをわか
👍 いろいろあって語れない?
アクションの 一つ一つに 横になり
👍 たいへんなのが伝わってきます …
👀 (化学療法というのは、結構きつい感じがします、夏バテと見境がつかないように思います。未だ、一回目ですが。)
今のところ、Mandaraとしては現代医学に挑戦しようという意識があります。が、本当にそれで頑張れるかは、先のコロナで罹患した持病の悪化時の耐え難い痛みを思うと自信が揺らぎます。和田秀樹氏やその他の自然療法を推薦する医術も、痛みがなければの話となりますね。
最も問題になるのは、普段からかかりつけ医がいなければいざという時面倒は見てくれない、という現実です。医療もその成立にはリピート性が必要ですから、やむえないのはわかります。
未だ夏か キバナコスモス 咲狂い 240912
前回は日記240909で西行についてまとめた。今回は、西行と関係の深い人物について登場してもらことで、次のリレー人物伝につなげたい。
1. 藤原定家(ふじわらの ていか)
藤原定家は、鎌倉時代を代表する歌人であり、『新古今和歌集』の編纂にも関わった人物である。彼は西行の歌風に強く影響を受け、西行を「我が心の師」と称賛した。西行の自然や孤独を歌った詩は、定家をはじめとする後世の和歌の世界に多大な影響を与えた。 ‖ ✍️ それほど評価を得ていたということは初耳である。
2. 後白河法皇(ごしらかわほうおう)
後白河法皇は、歌道と仏教に深い興味を持っていた天皇であり、歌人や宗教者と交流を持った。西行も彼の歌会に参加し、その中で特別な存在とされていた。後白河法皇は西行の歌を愛し、彼の詩的感性を称賛していたとされる。
3. 平清盛(たいらの きよもり)
西行は、もともと武士であったが、出家し僧侶となった。彼は平家と直接的な深い関わりを持っていたわけではないが、平清盛を中心とした政治的権力が強まる時期に生きたため、その時代背景の中で間接的に影響を受けた。西行は出家後、武士としての生活を離れ、武家政治の世界と距離を置いたが、平清盛のような権力者の存在も無視できないものであった。 ‖ ✍️ 権益を守るための殺し合いは、私でも出家したくなる。一方、友達が集まれば集団心理が働く。すると負けるのは絶対に嫌だ(子供の頃は特に絶対というぐらい競争心が強かったので)。しかし、それが凄惨な事態を生み出すとしたら、少なくとも物心ついた頃からは疑問に思ったものだ。西行が、若くして出家したという意味を少しは理解できる。他人を殺して左うちわ、という姿は醜い極限だ。が、現実がそうだとすれば、負けるのはいやだ、、、である。永遠に争いは続く、、、、のだろうか。
4. 北面の武士たち
西行はもともと北面の武士*であり、院政期の権力者に仕えていた。この時期の経験が彼に武士としての生き方に対する疑念を抱かせ、その後出家の道を選ぶことになった。北面の武士としての同僚や、当時の朝廷に仕える人々とは一定の人脈を持っていたと考えられる。 ‖ ★西行の人物伝の編集中に、なぜ若くして出家したのか、と疑問を呈していたのであるが、ここにヒントが見つかった。
[北面の武士*]「北面の武士(ほくめんのぶし)」とは、平安時代末期に設置された天皇の親衛隊の一種で、主に白河法皇や後白河法皇などの院政を行った上皇に仕えた武士たちを指します。「北面」という名称は、彼らが上皇の御所の北側に詰め所を構えていたことに由来します。
彼らの任務は、上皇を直接守護する親衛隊としての役割や、院政期の政治的・軍事的な力を背景に、上皇のために働くことが中心でした。武士たちが院政の下で重要な役割を担うようになったのは、この北面の武士から始まったと言えます。
5. 仏教僧侶たち
西行は出家後、仏教者としても活動し、さまざまな寺院や僧侶と交流があった。特に高野山や吉野などの聖地を巡礼する中で、多くの仏教僧侶とのつながりを持ち、修行と詩作に励んだとされる。仏教的な思想や悟りへの追求は、西行の和歌にも強く反映されており、仏教界の人物との交流は彼の精神的支柱の一つであった。 ‖ ✍️ どれほど仏教の真髄を学んだのか…
6. 自然との交流
西行の「人脈」を考える上で、彼が自然を特に愛し、その自然を通じて深い精神的なつながりを感じていたことも重要である。人間関係以上に自然との対話を重視した西行の生き方は、彼の詩作にも大きく影響しており、その独特な感性は後の時代に生きた多くの人々に共鳴した。
西行の人脈は、歌人や政治家、仏教者との関わりを超えて、自然や内面的な世界とのつながりが強かった点で、特異なものであった。彼の歌はこうした多面的な人脈や精神的なつながりを反映しており、その生き方と詩作は日本の文化に深く根付いている。
1. 願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ
– 西行が死に際に望んだ桜の季節の美しさを詠んだ歌。できうるなら、二月の花の咲く季節の満月の下で死にたいものだ、というような意味‖ ✍️ 如月(きさらぎ)は旧暦の2月のこと。また、望月とは、満月のことです。
2. 心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ
– 無心な心でさえ、秋の夕暮れの寂しさに触れるという感情を詠んだ。 ‖ ✍️「鴫(しぎ)」とは、水辺に生息する小型の鳥で、静かな湿地や沢(さわ:浅い川や湿地帯)に群れでいることが多い鳥で、多くの和歌や詩に登場する、という。
3. 命あればまたこの頃やしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき
– 生きていれば、この辛い時期も懐かしく思い出すかもしれないという、感慨深い歌。 ‖ 憂しと見し、は「うしとみし」と読み、辛いと感じる、の意。
4. 年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山 ‖ 既述。
– 年老いて再びこの山を越えるとは思わなかった、命の不思議を感じた歌。
5. 桜より松に心をよそへけり 常盤の緑なからふべきかは
– 桜の儚さに対して、松の常緑の永遠性に心を寄せた歌。
‖✍️ よそへけり⇒よそふは、(こころを)寄せる ‖ 緑なからふ⇒「緑が無くなる」という意味で、「なからふ」は「無くなる」「失われる」という古語で、「緑」は松の葉の常緑を指しています ‖
べきかは⇒「〜べきだろうか」「〜だろうか」という反語表現です。
したがって、「緑なからふべきかは」は「松の緑が無くなることがあるだろうか、いや、無くなることはない」という意味です。この表現は、松の常緑性を称えており、松が変わらずに緑を保ち続けることを強調しています。
6. 花をのみ待つらん人に山里の 雪間の草の春を見せばや
– 花だけを待っている人々に、雪の間から芽生える草こそが真の春だと教えたいという歌。
7. 何ごとも変らぬ世にもあらなくに 何に心を常盤なるべき
– この世のすべてが変わりゆくものなら、何に心を常に置くべきかと自問する歌。 ‖ あらなくに⇒ 断定、強調→あるわけない⇒この世が変わらぬわけがない ‖ 常盤なるべき⇒変わらない、普遍の、、
8. 山家にはまだふる雪の残りてや 谷川水の春を知るらむ
– 山里では雪がまだ残っているが、谷川の水はすでに春を感じ取っているという自然描写の歌。
9. 風になびく富士の煙の空に消えて 行方も知らぬ我が思ひかな
– 富士山の煙が風に流れて消えるように、自分の思いも行方が分からなくなることを詠んだ歌。
10. 花も嵐も踏み分けてゆく山路かな 思ひ定めぬ世にしありとも
– 桜や嵐を踏み分けて進む山道のように、定まらない世の中でも進んでいくという決意を詠んだ歌。 ‖ 世にしありとも⇒「世」は「世の中」、「し」は強調や感嘆を表す助詞、「ありとも」は「あるとしても」という仮定の表現です。