タイトル 「死を見つめる心/ガンとたたかった十年間」 ‖ 著者/岸本英夫 ‖ 講談社 ‖1973/3/15初版
著者略歴 ‖ 1903年6月27日 – 1964年1月25日 60歳で直接的には脳腫瘍で死去(小生18歳、倉敷市在住時)
東京大学教授や東京大学附属図書館長を務めた。兵庫県明石市出身で、父は宗教学者の岸本能武太。東京帝国大学文学部宗教学科を卒業後、ハーバード大学大学院で宗教心理学を学び、M.A.を取得。帰国後、東京帝国大学で講師、助教授、教授を歴任し、宗教学の研究と教育に尽力した。尚、GHQの宗教行政にも関わった。
▶︎250203[第1回]
死は、健康な人間にとって通常は意識されるものではない。したがって、普段の生活において問題として取り上げられることも少ない。では、どのような時に死が問題となるのか。それは、「生きたい」という人間の生存欲が脅かされる瞬間である。健康な時、健康を意識することはない。同様に、生きている時、死は意識から離れている。
本書では、著者が真に死に直面した際の混乱した心境と、それを克服しようとする過程が綴られている。確かに、誰もが死は生き物の宿命であることを理解しており、自らもいずれその運命を迎えることを知っている。しかし、いくら考えたところで、死が切迫しない限り、それはあくまで他人事にすぎない。死の恐怖は本能的な生存欲と結びついているが、健康な間はその欲求が表面化することはない。まるで、空腹を感じなければ食欲が湧かないのと同じである。
さて、岸本氏が癌を患い、その後の10年間をどのように仕事に没頭して過ごしたのかは、大まかに記憶に残っている。この本が出版されたのは、私が27歳で、間もなく28歳を迎えようとしていた頃であり、当時はざっと読み流したに過ぎなかった。しかし、それでも「真剣に生きた経験の持ち主」として心の片隅に残っていたため、本書を今も思い出すことができるのである。
続く
▶︎250204 【第2回】26〜27頁
「黒い死の影」
ここでは、7年前に「黒色腫(こくしょくしゅ ‖ 医学用語ではメラノーマ )」という悪性進行癌が見つかって以来の経過について述べられている。以来、20数回にわたる手術を繰り返している時点での記録である。
著者は、「手術のたびに全身から血の気がさぁっと引いてゆく思いにとらわれる」と述べている。つまり、死を見つめ続けても克服には至っていないということになる。7年が経過しても、である。本能と考えれば、意志の力ではどうにもならないと思える。眠るなと言われても眠ってしまうし、心臓は自らの意志とは関係なく鼓動を続ける。それが生命というものであり、避けようのない事実である。
著者は冒頭の略歴に示すように宗教学者である。その彼は、宗教の教えについては表も裏も知っているつもりだという。しかし、死後の世界については、どう考えても、どれだけ考え尽くしても「ある」とは信じられず、信じることができれば、どれほど楽になれることか、と。
同感である。死を目前にしても、著者にとっては別の世界があるとは到底信じられず、疑念を抱くよりほかにないというが、よくわかる。
もし肉体を離れた霊魂の存在を信じることができないのであれば、死とは無に等しいものとなる。この点が最も引っかかる、と述べている。そして自分が無になってしまうということに対しては、嘗ては「身の毛がよだつほど」の恐ろしさを感じた、と述懐している。私は体験していないので正直よくわからない。
ただ、私は今、少しだけ違った漠然とした観点で無について考えている。それは、非可逆的な時間の中で「生命活動の変異点」の存在があり、そこを分け入って通過することではないか、と想像している。説明しきれない思いがあるので深入りできない。
さて彼が語るように、過去というからには、それ以後はどうなるのか、次回以降に述べられるのだろう。
ここまできて著者は、二つのことがはっきりしたという。
第一に、人間は「無」というものを考えることができない。生きて生活しているという事実だけしか無い、と。✍️考えているのは生きている自分なのだから当然でもあろう。無というのは何も無いことである。物質に満ちている世界がこの世であり、あの世は物質のない世界なのか。無とは本当にいったいなんなのか?
第二については、この章には無い。次の「死の恐怖に勝つ道」で述べられているのか。
本章はここで終わっているので、今日の読書メモもここまでとする。
続く
▶︎250206 【第3回】28〜30頁
「死の恐怖に勝つ道」
彼は死後の世界はないのだと心に決めた。当てにならぬことは当てにしないと決めた。あるとしても、どうせわからないのだから、悪い方に決めた、ということである。近年、私もそのような考えに傾いていた。ひょっとしてあるかもしれないと思わないこともないが、それを言い始めると、いくらでも妄想できてしまう。いくらでも現実逃避できてしまう。それは、逃げ道を仮想した敗北ではないか。
それ以後、彼はただがむしゃらに働いた。癌という刺激のおかげで、生活態度に一本筋が通ったようなものであるという。私は今のところ癌の宣告は受けていない。しかし、動機は異なっても、歩いている道はそんなには違わない。だからこそ、真剣に読み進める気がするのである。
こうした日常を送っていた著者が、「ふとした機会に、『死』という考え方の目が開けたのである」と述べ、いよいよ本旨に迫る。
それは、日本女子大学の創立者である成瀬仁蔵先生のエピソードからヒントを得た、という。
成瀬仁蔵先生は肝臓癌にかかり、医者はそれを隠していたが、本人はすでに知っていた。いよいよ死が近づいたという頃、先生は椅子にかけたまま病院から女子大の講堂へ運ばれ、全学の学生の前で告別講演を行った。その講演は、大変な感激を聴衆に与えたという。✍️アップルの創業者スティーブ・ジョブスの講演録を思わせる…
一年ほど前のある日(読者にはいつのことわからない)、彼は女子大の成瀬先生記念会で講演を依頼され、準備のために先生の書かれたものを読んだ。そのとき、彼はふと、「別れのとき」ということに気がついたのであった。
死とは、人間にとって、大きな、全体的な「別れ」なのではないか。そう考えたとき、彼は初めて、死に対する考え方がわかったような気がした。
ここまでが、この章の内容である。「死の恐怖に勝つ道」を発見した(ような気になった)、ということのようである。なんとなくはわかる。効いたのである。そして、おそらく不安が消えたのであろう。が、なんだろうという興味を持たせた割には平凡な解ではないか。尤も死は人の誕生とともに平凡な出来事の中に含まれている、と言えないことはない。
この感覚は経験的に本人にしかわからないものだと思う。「薬(言葉)が効いた」という感覚である。私も人生においてある疑問をずっと抱いていたのだが、ある時、ある人の言葉(書籍)からその感覚が得られた。その時を境に長年の謎、問いかけ、そこに至るまでの苦しい問題が溶けて心の安定感につながった記憶がある。しかし、その直接的な動機が何であったかは忘れてしまった。が、それは問題ではない。心の病が治癒した後には、忘れてしまうものだ。囚われの身が解放されたという解放感こそが、心身の健康の本質なのかもしれない。
私は、「別れ」という問題についてもここニ三年試行錯誤しながら考え続けてきた。それ(現界)を完全には断ち切れないまま、今も実践過程にある。しかし新たな出会いもある。ただ、それらは以前のような現世の生存競争の場とは違い利害関係を伴わないものである。それは、天国に近い、いわゆる彼岸に近い場かもしれない。違うステージに立っている心境である。
さて横道にそれ、読書は遅々として進まないが、おそらくどこかで猛烈なスピードで遅い分を取り返して進むだろうと予想している。次の章は「死への心の準備」である。
続く
▶︎250207 【第4回】30〜31頁
「死への心の準備」
本文要旨
私たちは人生の折に触れ、「別れ」を経験する。もう一生会えないと思っていても、いよいよその時が来て、思い切って別れてみると、むしろほっとすることすらある。
死を迎える人間は、すべてのものに別れを告げねばならない。死に臨む別れは、それが全面的であるという点を除けば、普段の別れと本質的に異なるものではない。無の経験という実質的なものではない点で異なるにすぎない。
つまり、著者は改めて「無」を究明する必要はなく、普段の「別れ」の延長線上に「死」を位置づければよいと考えた。普段の別れにおいても心の準備は必要であり、その最たるものである死に臨んでは、なおさら準備が必要であろう。では、思い切ってその準備をしてみてはどうか。著者はこう考えるに至ったのである。
✍️ コメント
この点については、小生が十代後半に職場の先輩から聞いた言葉を記しておきたい。それは、「我々は毎日死の練習をしている」というものであった。具体的には、毎日寝ては目覚めるという営みを指している。学者でもない彼が何気なく放ったこの言葉は、それ以降、小生の脳裏に折に触れて浮かび、影響を与えてきた。
著者の言う「別れ」も毎日のことではないが、同じ類の発想である。死とは、別れや睡眠といった日常の延長線上にあるものと捉えることができる。
著者はこうした思考を通じ、心の準備ができれば執着から解放されるのではないかと気づく。そうして、身の毛もよだつような「無」の存在は、次第に親しみを感じ得るものとなっていった。
死の別れの意味
普段の別れには、次の出会いを想像することができる。しかし、死という別れについては、その先に何があるのか想像がつかない。ここに決定的な相違がある。
著者は、がんを宣告され、闘病を続ける中で、この意味にたどり着いた。それまでに七年の歳月を要したという。それまでの間、著者は「もっとも生きがいのあることに夢中で時間を使う」ことで、死の恐怖から逃れてきた。どうすれば死を忘れ、ひたすら生きることができるのか――その一点に意識を集中させていたのである。
✍️ コメント
この考え方は、小生自身がたどり着いた境地に近い。それは、「何かに没頭しているとき」、つまり「自我を置き去りにできたとき」に、最も幸福を感じるという実感である。
さらに発展させるならば、嫌なことには没頭できない。没頭する対象には、愛情を感じねばならない。そして、その愛情とは、自分が感じるものであると同時に、自分が祖先からそのように仕向けられているのではないか、という考えに至ったのである。愛する対象に命を捧げるなら本望ではないか…無も恐れないで済む…この結論に達したのは、さまざまな社会経験を積んだ後、五十歳前後のことであったと思う。もちろん、人生はそう上手くはいかないものなのだが、それは置いておく。
✍️ 続コメント
著者の考えは、「死を別れの極地として受け入れる」という点で、小生の思索とは異なる。しかし、著者が「仕事に没入することで死の恐怖から逃れていた」という時期があるという点では、外から見た結果は酷似している。いずれも「没頭」という現象が起きる必要があるからだ。
著者はそこから脱却し、さらに先の思索へと踏み込んだ。一歩枝分かれした、より奥深い考察かもしれない。
次章:「私の心の宗教」
ここまでの内容は、一読者として参考になった。ただし、解決には至らない。当然のことだろう。
そもそも、こうした問題は、簡単に解決するような次元の話ではない。言語化すると、むしろ真実が見えなくなることもある。口に出した途端に、何かが遠のくような感覚があるのだ。
しかし、それとは別に、著者の心の変遷は興味深い。
続く
大往生したけりゃ医療と関わるな / 「自然死」のすすめ
著者 中村仁一 初版日時 / 2012/1/30 ‖ 幻冬社新書213ページ ‖ 著者略歴:1940年生、2021年6月5日逝去(81)京大医学部卒、社会福祉法人老人ホーム「同和園」付属診療所所長、医師。本メモ期間 ‖ 250206〜
[読書方針]共感部の切抜きを主とす
▶︎読書方針 ‖ 否定も肯定もなくニュートラルな立場として記す。
- 本人に治せないものを、他人である医者に治せるわけがない
- ⬆️病気やケガを治す力の中心をなすものは「本人の自然治癒力」です。
- ワクチンを打ってもインフルエンザにはかかるし他人にもうつす⇒受験生に予防のために打っておこうと勧めるのは笑止…(受験に備えるなら早めに天然ものにかかっておくこと…)
- (コロナ)ワクチンの接種は意味がないと思いながらも、世間の少数派のせいもあり、私(著者)自身は立場上、老人ホームに移ってからは!毎年接種し続けてきました…しかし厚労省が「打ってもかかる」と認めたので、大手を振って辞める方にしました。
- このシーズン中、インフルエンザで死んだ人が204人。対し予防接種で死んだ人が133人もいます(日本医師会雑誌2019年12月号)。✍️何やらマスコミの報道とは異なる感じがする。細かいデータが記述されているが、すでに下火になったことなのでワクチン談義は読書から外す。〜38ページ。
- 解熱剤で熱を下げると、治りは遅れる ✍️熱は生体反応であり、意味があることは知られていることかと思う。その100万年にも及ぶ自然の仕組みを壊そうという…矛盾が生まれるのも頷ける。しかし一般に皆んな!熱があれば解熱剤という常識が行き渡っていないだろうか。
- 📍 45ページまで、つい深追いしてしまった。
第二回目 未定
▶︎250207 のりさんの投稿
久々に 墨の世界に 遊ぶ
▶︎4コマ漫画 我等のy.Mandara

⭕️食事療法 ロカボ食実践中
▶︎朝食 欠食 ‖ 散歩優先
▶︎12:00-13:30 朝食&昼食‖ ロカボ食。主食うどん。💊ビタミンB12
▶︎夕食 ‖日高屋 ‖ 野菜たっぷりタンメン、ハイボール1杯。ナッツ10粒
⭕️運動 ウォーキング歩数=13,500
⭕️精神活動 ‖ 「ニュース読書感想文作成」
⭕️私の養生訓
- 良いものより悪いものを摂らない。
- 禁酒→米‖ 癌の原因 ‖←禁酒
- ストレスは解消して明日へ残さないことが健康の条件。
- 食事は食べる順序を守る。一食当たり糖質は40g。間食で10g。
- 食後30分以内のウォーキング。血糖値スパイクは防止可能。
- 筋トレ ‖ 週2回⇒★専門家に相談
- ランニング 週1回⇒遊歩道発見
- 転倒しない場所で全力疾走∨水泳
- 糖質制限 ‖ 米は100gで糖質35g、一食あたり糖質は40g限度、間食合計10g、基本、空腹は脂質やタンパク質で満たすこと。後から食べてしまえば効果なしになるため。
- タンパク質はアミノ酸からなるので、肉食で無くても健康的な生活は可能である。250203分析参照。
ロカボ食の糖質制限
ロカボの基本的な糖質摂取ガイドラインは以下の通り。
📌 1食あたりの糖質量:20~40g
→ 玄米100gあたり35g、白米は37g
→→ ご飯は80g程度にして不足ならタンパク質やナッツ、バナナ1/4などの果物で。
📌 間食1回あたりの糖質量:10g以下
📌 1日の総糖質量の目安:70~130g