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自由という重荷 ― サルトルの実存主義(第2回)
実存主義を語るうえで、ジャン=ポール・サルトル が強調したもう一つの重要な思想が「人間は自由の刑に処されている」という言葉である。少し過激に聞こえるが、その意味は明快である。人間は生きている限り、常に選択を迫られる存在であり、その選択から逃れることはできないということである。
どの道を進むか、何を信じるか、どのように生きるか。これらを決める最終的な責任は、社会でも神でもなく、結局は自分自身に帰ってくる。自由とは、好き勝手に振る舞うことではなく、選択の責任を引き受けることである。
老年の立場から振り返れば、人生は小さな選択の積み重ねで形づくられてきたことに気づく。実存主義は、自由を軽い言葉としてではなく、人生の重みとして受け止めよと教えているのである。[260403]
孤独と自由 ― 老いの中で見えてくる実存

人は時に孤独である。
しかし、老いてみると、その孤独は必ずしも不幸ではないと気づく。むしろ孤独とは、自分という存在に静かに向き合う時間でもある。
人生を振り返ると、親子の関係についても同じことが言える。子どもには子どもの人生があり、価値観の合う人を見つけて、それぞれの世界で生きてゆく。親と子の価値観が違うのは当然のことであり、むしろそれが自然なのである。
ここで思い出すのが、フランスの哲学者 ジャン=ポール・サルトル の実存主義である。サルトルは有名な言葉で「人間は自由の刑に処せられている」と語った。人は生まれながらに決まった本質を持っているのではなく、自らの選択によって自分の存在を形づくっていくというのである。
親子関係もまた、この実存の問題から逃れることはできない。
子どもがどれほど優れた能力や知恵を持っていたとしても、親の人生を決めることはできないし、また決めてはならない。親の人生は親の選択によって成り立つものであり、子の人生もまた子自身の選択によって築かれるものである。
もし互いの価値観を無理に押しつけ合えば、人は自分自身の自由を失い、「他人の人生」を生きることになる。それはサルトルの言う「自己欺瞞(バッド・フェイス)」に近い状態であろう。自分の自由から目を背け、他人の期待や役割の中に逃げ込む生き方である。
老いて思うのは、人生の主体は最後まで自分自身であるということである。親子であっても、それぞれが別の実存であり、別の人生を歩む存在なのである。
もし関係が窮屈になり、自分の生き方が押しつぶされそうになるならば、静かに距離を取ることもまた一つの選択である。それは逃避ではなく、自分の実存を守る行為なのである。
孤独を恐れる必要はない。また、最終選択には世間の常識を捨てても良いという選択肢が実存主義から導かれるのである。
孤独の中でこそ、人は初めて「自分の人生」を生き始めるのである。

