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はじめに
プライマリーバランス(PB)黒字化は、日本政府の財政健全化政策の柱とされてきた。しかしこの「黒字化目標」は、国家が貨幣供給を絞り、国民から貨幣を搾り続ける制度装置として機能してきたのである。なぜそのような国民生活が苦しくなるような仕組みを正当化してきたのか。本記事では、PB黒字化の実態とその憲法的・制度的問題点を掘り下げ、財政運営の根本的な見直しを提起する。
PB黒字化とは何か——通貨供給の縮小という現実
プライマリーバランス(PB)とは、国の財政において「(利払いを除いた)歳出」と「税収等の歳入」との差を示す指標である。PB黒字化とは、この差をゼロ以上にすること、つまり「借金に頼らず予算を組む」ことを目指す財政目標である(借金という言葉のもつ意味合いも、反面は資産なのであるが、ここでは論究しない)。
一見すると健全に思えるこの目標だが、現実には政府支出を削減し、増税を進めなければ達成できない。すなわち、国家から供給される貨幣量が減少し、民間経済に流れる資金が細るのである。
「緊縮財政」の大義名分として機能する制度
PB黒字化は、いわば予算を削る緊縮財政の正当化装置となっている。「財政規律を守るため」と称して公共投資を削減し、福祉や教育の支出にも制限をかける。これにより、国民の生活は慢性的に圧迫され、企業の内部留保が膨らむ一方で、可処分所得は増えない。
その結果、デフレが固定化し、将来不安が募り、消費も投資も萎縮するという悪循環が続いている。
制度設計の背後にある「繁栄抑制」の思想?
PB黒字化が政策の中枢に据えられた背景には、「国家は赤字を出してはならない」という、まるで家計のような財政観が根強く存在する。しかし国家は通貨発行権をもつ唯一の主体であり、自国通貨建ての財政支出によって経済を刺激することが可能である。
それにもかかわらず、貨幣供給を意図的に抑える仕組みを制度化するというのは、まるで「日本を繁栄させてはならない」という驚いた思想が組み込まれているかのようである。
憲法との整合性——幸福追求権に反する制度運営
日本国憲法第13条は、「すべて国民は個人として尊重される」とし、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定めている。
しかし、PB黒字化のために財政出動を抑制し、国民を貧困状態に置く制度運営が続けられるならば、それはこの憲法精神に反する可能性がある。国民を守るべき国家が、制度によって国民の幸福を妨げているのではないかという根本的な問いが、ここに生まれる。実際、嘗て、財政法4条を日本国憲法の違反にも該当する、との主張を作家で評論家の佐藤某さんがYouTube動画で「チラリ(*1)」と語っておられました。(*1)チラリ:権力に反する発言に恐れを抱いている微妙な態度。
財政法の再検討を——制度疲労とその打破へ
財政法第4条は、「国の歳出は、原則として公債または借入金をもって充ててはならない」と定めている。これがPB黒字化の法的根拠とされているが、この条文が制定されたのは戦後間もない1955年である。詳しい経緯は不明ですが、当時は日本を再び戦争体力を持たせてはいけない、という縛りを組み込んだものと感じます。しかしながら、すでに時代は新しい局面を迎え、現代の経済構造には適合していない。
今こそ、この条文と財政法全体を再検討し、「国民のために財政を使う」原点に立ち返るべき時である。制度疲労した財政運営にメスを入れ、貨幣の本質を踏まえた現代的な仕組みに改める必要がある。
結論——数字ではなく、人間の幸福を基準に

財政の健全性を数字で測ること自体が、目的と手段を取り違えた行為である。国家の財政は、国民を生かし、社会を豊かにするための道具でなければならない。
政府も財務省もPB黒字化という制度目標の背後にある発想そのものを再点検し、今一度、国家とは何のために存在するのかを問い直す時が来ている。国民の幸福を守るために、貨幣を正しく使う国家運営へと、舵を切るべきである。次の総選挙が、その変曲点となることを期する。
次回予告 『文藝春秋』2025年5月号に財務省(旧大蔵省)出身の齋藤次郎氏が、『安倍晋三回顧録』に対して反論を展開するインタビュー記事、が掲載されているという。財務省の体質を知る良い機会である。次回はその内容を咀嚼して本記事との関連について検討を加えてみたい。
2025/6/17 10:30 セブンイレブン店内で記す。