日記240201(木)晴れ
駄作100選
飯能山々、たなびく雲に我雲乗りて里を眺る
[今日のプログラム]
📍 8:00- ウォーキング開始
📍 9:00- 13:00 atミスタードーナッツ店
→ 第二次大戦以降の社会リサーチ
📍 13:30- 帰路ウォーキング開始
→ lunch 帰りにラーメン屋を覗いた。しかしメニューが全く表示されていない。田舎とはいえ、これでお客はいるのか不思議だ。もっとも、ガラガラである。もちろんパスして家路へ。
📍 14:00- 午後の部
→ 喫緊テーマ / take a nap
→memo>明日、水道橋で担当者と面談
📍 17:00- 閉幕
📍 20:00- 2回目のウォーキング ‖ for 6000steps over
→ 明日の行動計画忘れずに
📍 23:00- 就寝
“きなこ”の日記
▶︎今朝の様子
一緒に起きて餌をカリカリ
不足があるのか、猫の一声
チュールあげれば待ちきれずに首をだす
ウォーキング開始でドアを開けると、、
外の景色を眺め、飛び出ししない
寒いのか?
では、行ってくるぞ…通学のようなルーチンになっている朝の時間、今朝は遅刻だ
📍 23:20- “きなこ”が「寝ようよぉ〜」と待っている。落ち着かない。歯を磨いて、つと。
メモ
▶︎健康記録 集中力減退のように感じるのは長く細かい字を眺められないからではないか、歳だから白内障とやらじゃないか?
▶︎IT ‖ ワードプレスの同期問題
スマホで編集したものはクラウドに同期される。しかるに、PCで同期したものがスマホに反映されない。つまり、PC側で編集された内容はクラウドに直ぐには同期されないようだ。いつか、誰かが指摘してシステムに反映されると思うが、しばらく不便である。パソコンよりスマホの機能が高くなるのは、普及台数に関係するので仕方ない。
【リサーチ】
校正中 ‖ [コンセプト]出来事の全てを記述しようとすればわかりにくくなる。そこで、できるだけわかりやすく歴史の基本が掴めるようにと心がける。
▶︎第二次大戦以降の社会◀︎
大戦の予兆
1929年10月24日の「暗黒の木曜日」にアメリカの株式市場で株価の大暴落が起きた。それが契機となり世界恐慌が始まった。
不況から脱出するために、植民地を持つイギリス、フランス、アメリカの資源国はブロック経済*という保護貿易を構築した。対し、植民地を持たない国は保護貿易をされて資源不足に陥り、生き残りをかけて植民地を求めていった。ドイツはポーランドへ、イタリアはエチオピアへ、日本は満州へ、とそれぞれ侵攻した。
尚、アメリカはフランクリンローズベルト(ルーズベルトともいう)が有名なニューディール政策という不況対策を講じた(これはケインズの経済学の理論を取り入れた手法であり、今日までその手法の是非を様々な観点で議論が行われている)。
*ブロック経済とは、植民地を持つ国が植民地の資源を独占する(保護貿易)ことにより、自国経済を支える仕組みをいう。
こうして生き残りのための戦いが広がってゆく。
大戦の開始
1939年9月にヒトラー率いるナチスドイツはポーランドに侵攻した。侵攻に先駆けて、8月に独ソ不可侵条約を締結した。
実はその不可侵条約締結の2日後にイギリス議会はポーランドとの相互援助条約を批准していた。
1939年9月にドイツがポーランドに侵攻すると、イギリスは相互援助条約に基づきドイツに宣戦布告した。これが、第二次世界大戦の幕開けである。
戦争の拡大
翌1940年代に入ると、ドイツは北側、西側ヨーロッパの国々を次々攻撃し、パリを占拠してフランスを降伏させ、イギリスに対しては空爆を仕掛け、大戦緒戦においては有利な戦いをした。
👁️🗨️ 先手必勝ともいう。相手の油断をつく仕掛け側が緒戦において有利なのは当然かもしれない。日本の真珠湾攻撃も然りである。古くは織田信長の桶狭間の戦いにしても奇襲攻撃が功を奏した。洋の東西を問わず、基本は変わらない。
これに追随してイタリアのムッソリーニ率いるファシスト党は、ドイツ側に立って参戦した。ここで、同じファシズム同士(👁️🗨️ 日本は天皇がいるので若干異なる)の日独伊三国同盟*がこの年1940年9月に締結される。歴史上、国際連盟を脱退した国同士、世界的に見れば、孤立した存在である(枢軸国と呼ばれている)。尚、国際連盟を脱退するタイミングは、ドイツと日本は1933年、イタリアは1937年に脱退している。 ‖ 日本は満州国が認められなかった反発。ドイツはナチス党が成立し脱退、1935年にイタリアはエチオピアへ侵攻し、経済制裁を受けたため、と、理由はそれぞれであった ‖ ファシズムはここに来て世界の脅威となり、当初加入が認められなかったソ連が加盟に至った ‖ このように国際連盟の歴史も複雑な変遷を遂げている。
ドイツの占領政策
緒戦を優位に進めたドイツはヨーロッパのほとんどを支配下に置いた。が、ドイツは各地で過酷な占領政策をとった。特にユダヤ人差別は酷くアウシュビッツ収容所など大量虐殺の痕が残されている。
👁️🗨️ 今では2度と同じ過ちを起こすまいという国家の意志を示す痕跡として世界に公開されている。広島の原爆ドームのようなものである。
このようなドイツの過酷な占領政策は、ヨーロッパ各地でドイツへの協力拒否や武力に対する抵抗運動(=レジスタンス)を招いた。
太平洋戦争の開始
日本は日中戦争が長引く中で、次第に資源不足が目立つようになる。その穴を埋めるために東南アジアに石油やゴムなどの資源を求めて南進政策をとることになる。前準備としてソ連と日ソ不可侵条約を締結した。日ソ不可侵条約の具体的な目的は、ソ連の進行を阻止し、満州にいる軍隊を東南アジアに向けることにあった。
だが、東南アジアは欧米列強の植民地でもある。時の政権、近衛内閣は米と交渉して衝突を避けようとしたが、関係は悪化することになる。そもそも、日本が資源不足に至るのは、世界を敵にしつつあったからであり、連合国側の対策として講じられた経済封鎖が日本を困難に陥れていたのであった。
近衛内閣が米国と南進の交渉しながら、一方の軍部は侵略行為をしている、という二枚舌である。アメリカは連合国側として日本に対し石油などの資源の輸出を禁止した。当然の成り行きであった。
追い詰められた近衛文麿内閣は退陣し、岩手県出身の東條英機が現役軍人のまま第40代内閣総理大臣として就任する。東條政権は、このいき詰まりを打開するため、ついには無謀な真珠湾攻撃へと進むのであるが、経緯については当然に紆余曲折があったはずである。詳しくは、別の機会に譲る。
当時は真珠湾攻撃が成功したふうに報じられた。ところが、実は通信は傍受されており、戦略は米国の手中にあった。手玉に取られていたのである。後に明らかにされたことであるが、敗戦は決まっていたも同然であった。
国民の動員 ‖ 戦時下の人々
太平洋戦争は、国民を総動員させた。それまでは、軍人が戦争をするという事が日本の常識であった。しかし、この戦争は日本が建国以来、初めて植民地になりそうな状況であり、危機感が半端ない状況であったと言える。その結果、国家総動員法を成立させ、国民全てが戦争に駆り出されたのである。そこには悲喜交々、否、悲しみの数々の物語が埋もれてゆくことになったのである(学徒出陣、勤労動員、学童疎開、文系大学生動員、沖縄のひめゆりの塔、広島・長崎の原爆投下、東京大空襲 |ともなって隣国とのあらぬ争いなど)。
植民地と占領地 ‖ 戦時下の人々
日本は植民地や占領地域に対しても日本人同様に厳しい動員を行なった。多数の朝鮮人や中国人がその意思に反して連れてこられ、鉱山や工場などで労働を強いられた。現代においては日本人と同等に扱われたのだ、とか、あるいは募集して集まったのだからとか、色々な意見が散見される。しかし、この事実は半日感情を産み、半日運動なども起こった。
これは日本特有のことではなく、ヨーロッパにおいてはもっと深刻な激しい民族間のバトルの歴史があった。比較して島国の日本はそれほど差別的な扱いはしない国民性もあり、ヨーロッパのような民族間の怨念は少ないといえると思う。
総力戦と国民の犠牲‖ 戦時下の人々
第二次世界大戦では、これまでのような軍人と民衆の切り分けがなくなり、勝つためには手段を選ばないという殺戮・虐待に向かって突き進んだ。そのために、世界では軍人よりも民衆の死者が上回ったとされている。
戦争の終結
イタリアとドイツの降伏
第二次世界大戦の緒戦では、ヨーロッパにおいても、アジア太平洋地域においても枢軸国[ドイツ、イタリア、日本]が有利に戦争を進めた。しかし、次に述べるように、イタリアが降伏しドイツが降伏することになる。
1942年の後半から連合国が反撃を開始し、枢軸国を追い詰めて行く。連合国でも特にアメリカは巨大な経済力と軍事力を持っていた。
1943年9月にアメリカ・イギリス軍がイタリアを攻撃して降伏させ、翌年の1944年8月にフランスのパリが解放され、1945年5月にドイツが降伏した。最後の最後に、日本だけが取り残されることとなった。
‖ 東京空襲と沖縄戦
日本は1942年にガダルカナル島で敗北し、これ以降ずっと後退することになる。1944年7月にはサイパン島が陥落し東條英機内閣が退陣した。しかし、日本の敗北が明らかであったにも関わらず、日本の指導者は即時降伏をしなかった。この期に及んでも、有利な敗北を模索したのだった。しかし、これがさらに重大な国民の犠牲を生むことになる。
1945年3月にアメリカ軍が沖縄に上陸し、沖縄戦が繰り広げられました[死者12万人、ひめゆり学徒隊|ひめゆりの塔]。また同月3月10日には東京大空襲[死者10万人]。
‖ 日本の降伏 1945年8月15日
ついに原爆投下される。1945年8月6日に広島市(死者14万人)、9日に長崎市(死者7.4万人)。そして、力尽き、8月15日にポツダム宣言を受け入れ、昭和天皇の直音声で玉音放送が流れる。
尚、この年の7月に連合国からはポツダム宣言が発せられ、軍隊の無条件降伏、民主的国家の成立など要求されている。これに対しすぐには応じませんでしたが、その背景には、天皇の存在があったとされる。少しでも有利な戦後の復興条件をと裏側で模索していたわけです。
[補足]このポツダム宣言*受諾の直前、8月8日に、ソ連は日ソ不可侵条約を破って満州や朝鮮、千島列島を侵攻しました。この行為は、マルタ会談*で決められていたそうです。
*三国同盟
日独伊三国同盟は、1940年9月27日にベルリンの総統官邸で調印された日本、ドイツ、イタリアの軍事同盟である。正式名称は「日本国、独逸国及伊太利国間三国条約」である。 ヨーロッパ戦争、日中戦争に参戦していない国からの攻撃に対する相互援助を約束した。<出典|Wikipedia>
*ポツダム宣言
第二次世界大戦中の1945年7月26日に、連合国(アメリカ、イギリス、ソビエト連邦)の首脳がポツダムで発表した声明です。この宣言は、日本に対して無条件降伏を求め、戦争の終結を促しました。宣言の内容に従い、日本は1945年8月15日に降伏し、第二次世界大戦は終結しました。</ChatGPT>
*マルタ会談
1989年12月2日から3日にかけて、マルタで行われたアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領とソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ国家主席の間の歴史的な首脳会談のことを指します。この会談は冷戦終結の象徴であり、東西の対立が緩和される一翼を担いました。</ChatGPT>
感想
人間同士が権益を求めて大量破壊、大量殺戮を互いに行ったのが第二次世界大戦である。
その権益というのは、地球上の資源を、これは俺のものだ、と声高に主張する一部の人の争いから始まっている。地球の一部を俺のものだ、というのも突き詰めて考えれば「本当にそうなの?」と疑問にはなる。
戦争の本質は権力闘争である。一般大衆の中にも存在する本能的な部分もあるが、その他多くの善良な人間にとっては有り難くない闘争能力である。
これら、有り難くない能力を制御するには平和憲法と言われる日本国憲法が遵守されることを期する以外にないと思う。
* 東條英機逸話
彼は陸大(陸軍大学校)で11番目の成績だった。それ自体、すごいのだろうが、その彼が権力強化を志向し複数の大臣を兼任した。いったい、どんな人物だったのだろう。彼の座右の名は「努力即権威」だったという。この言葉からは感銘を受けない。努力が権威というのはある確率で正しいらしい、とは言えるが、逆は真ではない。今ひとつ思想に深みが感じられない。もちろん、実際のことはわからない。
(校正必要)