生活再建へ最大600万円 ‖ 能登地震1ヶ月

メモ

▶︎健康メモ

→ ウォーキング 現在7500歩。1万歩は行けそうだ。風邪は次第に減衰して快方に向かっている。明日は神一中へ参加できそうだ。

📍 19:20- 11549歩→12550歩。

▶︎バグを憎んで人を憎まず

水道橋駅を降りて歩いていると、とあるビルのエントランスで大きな文字でこんな標語が見えた。正月の書き初めだろうか?

👁️‍🗨️ 罪を憎んで人を憎まず*1、という言葉をもじったものだ。コンピュータのシステム開発会社だろう。コンピュータのソフトウエアにはバグが必ずある、という例えで、だからそれを誇大に責めるな、とも受け止める事ができる。

しかし金融システムにはあってはならない。そのため、二重三重にリカバリーする仕組みで対処している。それでも、たまにダウンすることがあるのはご存知の通り。

私は若い頃からこの考え*1 にかなり共感していた。人の成長を優先するならば、小さな失敗をさせなければ、と今も思っている。自分に対してもである。ただし、万人に通じる真理では無い。それを身をもって体験したことを以下に記す。

[連想随筆]

私の(養)父がダム工事現場にいる頃、犯罪を犯した人に情をかけた話である。禁じられていたタバコを与えたり、他にもいろいろ慰めたり情をかけた。しかし、結果は返らないどころか、裏切られた、と言っていた。何回か聞いた。

今では、以下のように考える。犯罪を起こしたということは、そういう性癖を持っていると考えられ、生まれ持った本人独自の特質であり、それはそれでなんらかの生きている意味がある、と考えるようになった。批判するほど私は偉くない。しかし未然に防止できる防衛策は持つべきだ、という考えである。

父の言葉からすると、やたら人は信用するものではない、と思ったようであった。私が小学校4、5年生の頃であった。

やたら情けをかけても、思う通りの成果にはつながらない。むしろ害になるケースも少なくないのだな、となんとなく感じたものである。

この情をかけた心理的な背景を後に知ったのだが、ここでは長くなるので省く。情をかけるのは自分自身の心の中にも要因が隠れている、ということである。心の隙とでも言おうか。

実は私が30年ほど前になろうか、現役の頃、従業員が私を保証人にしてあらぬところからお金を借りて、返せなくなった事件があった(他に複数回あったうちの一件)。

そこで、保証人の書類を持参したヤクザのような輩が会社に乗り込んできたことがあった。従業員がいる受付のカウンター越しに大声で乗り込んできたのだった。手形でいいから返せ、と。確か、コピーだったと思う。つまり、原紙ではないから再利用される危険があった。

相手はその道のプロだ。従業員がこの異様な事態で警察に通報し、まもなく警察官が5人ほど駆けつけた。が、その男は手慣れたものである。警察は民事に口出すな、と一喝。

警察官もタジタジとなる。暴力なら対応できるが、そうでない場合は手を下せないのだ。渋々大声を出してはいけない、と忠告して帰ってしまった。

従業員が、この輩の背後で垂れ幕を張って励ましてくれた。「…がんばれ〜」。まるで映画のシーンのように思い出す。馬鹿丸出しの昔の事件である。

貸し与えた人物はOといい、50歳代前半で病没した。元有名企業の課長職にあったのを政府の人事システムを見て引き抜いてきた幹部候補であった。

実は話したいことは他にある。それは、すでに亡くなった人物の借用書に貸付の担保として彼のおばさんの土地建物が記されていたのだった。

私は、最初は、返してもらえないばかりでなく、ヤクザに絡まれたのだが、それをよこせとは言えなかった。諦めるつもりだった。が、私の古くからの知人の俊敏事業家がそれを知るに及んで、私からその資料を取り上げて、相手と交渉して、私の名義に移すことになったのだった。

しばらくしてそのO氏の叔母と会うことになった。なんの責任も無いのにO氏のせいで他人(私)のものになろうとは夢にも思っていなかったことだろう。私は年老いたそのおばさんと会って話を聞いているうちに黙って名義を戻そうと心に決めた。

今思うと、事業家としては甚だレベルが低かった。情に流されるようでは大きな成功はおぼつかないのだ。他人に責任を取らせる、ということのできない経営者はのしあがれない。自分だって責任は逃れられないのだから。

その担保となっていた住宅は春日町の交差点近くにあった。当時の路線価で二千数百万の物件だったが、私は黙って名義を元に戻してあげたのだ。

あとで、この話をまとめたM氏から散々馬鹿呼ばわりされたものだ。今でも、会うたびに言われてしまう。どうしょうもないお人好し、と言われる始末だ。当の自分は決してそうではない、と思っているのだが他人から見たらそう思われているのだ。自分の目より他人の複数の目のほうが正しい。

ここでオチがある。その叔母さんは、私がお人好しと思ったのか、そのあと会った時に涙ながらに生活費をせびってきたのだ。私は内心驚嘆した。

私はお金持ちなんぞでは無い。あなたより生活はたいへんなんだよ、一級の場所に住宅をもっているあなたよりはるかに…と思いながら、聞いていた。

これが、冒頭で述べた父の反省から思い出すこととなった過去の話である。

情をかけたからといって、相手は応じてくれることはない、と思ったほうがいい。

話は転じて、日本の首相が諸外国を訪問するたびに多額の資金を拠出している。日本は金持ちなんだから相手は当然と思っている。

私のこの経験に似たような現象が起こりはしないか。身近なところで困っている人がいるのだ。それは全員とは言わないまでも、国民である。もっと、そこから手を差し伸ばすべきではないか……いや、そうしている、というのかも知れないが…

(本稿終わり)

[注記]情けは人の為ならず、とは。

文化庁発表の「国語に関する世論調査」で、「情けは人の為ならず」の意味認識状況を調査した結果、半数近い人が誤った認識をしていた</net>

半数は、情けをかけても人のためにならない、という意味で広がっている、ということになる。実は、これも正しい気がする。逆も真なりではないか。本記事の体験談は、こちらの意味となる。

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