日記240210(土)晴
7:00-8:00 モーニングタイム
8:00-10:00 Walking&ThinkingTime
10:00-12:00 飯能中央病院 ‖ 抜糸
memo> 整形外科予約(右肩の痺れ)
11:00- 抜糸終わり。肩の痺れを話したところ、レントゲンへ。結果は、今回の怪我とは関係ない。湿布薬出しましょう。塗り薬と貼り薬どっちがいい?助っ人いないので塗り薬にした。
ついでに、相談するならどこかと聞くと「整形外科だけど、同じだよ。湿布して様子見ましょうとなるよ」と。
持病なのはわかっている。中学時代に無理してピッチャーやって痛めて以来だからだ。原因は分かっていても対策はわからない。
11:40- 13:40 駅構内1Fのベーカリー(OH!PAL)店舗内で
&パン。
14:00- 病院は中止し帰路 ‖ 入間川へ
白サギ、上手く撮れていた

21:00- 休憩中
22:00- 就寝
“きなこ”の日記

22:00-10分ぐらい探した。テーブルに飛びのり、頭を擦り付けていていつのまにかいなくなった。
呼んでも出てこない、二階も2回見にいっていない。
諦めかけて寝ようとしたら、対面の洋服ダンスの中に潜んでいて、目が合った。
大丈夫か?ホッとする。
コラム
[歴史]信長と秀吉
[ニュース]8日、織田信長側近から秀吉宛ての返書などが見つかった[=兵庫県立歴史博物館と東京大資料編集所の村井祐樹准教授] ‖ 秀吉が上司の織田信長に戦果自賛の文書を送り、信長側近は困惑が(も)あったようである。
しかし、側近8人が連盟で秀吉を煽てる内容で返信してあるところを見ると、皮肉にも取れるが、嫌がられてばかりはいない様子が伺える。信長側近に功績を自賛する書状を大量に送ることで主人への自己PRにも優れていたのだろう。
今で言うなら、多量のプロパガンダの手段を使った、と言うことであろうか。一方の織田信長は、中小企業の社長並み報告を求めた、と准教授はコメントしている。
秀吉はおそらく臆面もなく親方のお気に入りを狙った、とも思えるが、生来のもので、わざと狙ったものでもない気がする。