コラム
ずいひつ
「必要は産みの母」
誰でも知っているこの言葉。必要になってからことにあたれば打開策も見つかるというもの。何もしないで自分を当事者にしないで、側で考えて眺めているだけでは物事は進まない。
困ってなんとか解決しなければならない、という状況に身を置くことで(しか)物事は成就しない。
若者は未来に生き、老いては過去に生きる、そして死んで無に至り、永遠に生きる。
いずれも、自分の生命に関係する「時間」に関する立場を定めなければならない。
若者は昨日の自分より今日の自分がよりよく変化していることを感じる。その変化は、進歩と言ってもいい。それがやりがいというものゝ一つだろう。
「よりよく」を感じられないのであれば、一緒になって考えてあげたいものだ。しかし、決めるのは当然、本人だ。そうしないと、思い通りにならないときに、人のせいにできる。その隙を与えてはならない。人間は変化する生き物だから、将来何があるかはだれもわからないから。
一方で、これから老いてゆく立場というのは、昨日までできたことが、今日できなくなる、という現実に直面してゆくことである。強がり言ってみても、お世辞を言われても現実は変わらない。ここに目を背けては万人に問われる永遠の課題「命とは」に自分なりの解を見い出せ得ないだろう。毎日ウォーキング中、チラリと頭を掠める。
人生100年時代の戦いの記録
朝食‖ 軽食 ‖ ロカボ食
→ 食材 購入不要
昼食‖ロカボ食、
▶︎200mlのコップ一杯の冷たい水に、クエン酸小さじ半分、重曹小さじに其の半分程度を入れてかき混ぜる。すぐに炭酸ガスが発生して炭酸水ができる。

ピリッと美味しく飲める。調べたところでは、健康に悪いという情報はない。✴️ただし、知恵袋に質問を投げたら、二つの回答がきた。片方は健康被害はない、もう片方は血圧が上がる(原因は、塩分の取りすぎになる)というもの。さらにエビデンスを調べてる必要がある。当面、問題はなさそうだ。✴️糖質が入っていないので、甘さ独特の不快な後味がしない。
夕食‖ロカボ食、お腹に聞いて主食省いた。
歩数 4100 暑さ理由に二回目のウォーキング休み
詩歌
▶︎投稿者 のりさん
- 夏バテは この老体を 追い立てる
- 湿気とは 身体重くして ダルさかな
- ▼ 孫が二歳になっての句 3句
- 二歳なり なんでもみえる 二歳かな
- 世の中の 知識はずせば 二歳なり
- 経験を はずした姿 二歳なり
- 朝飯は 納豆豆腐に 胡瓜漬け
- 梅雨晴れに 植木切る音 うるさけり
- 選挙ポストの掲示板の報道を聞いて
- 常識が 吹き飛んでゆく 今の時
- 梅雨晴れに ジェットの音 響きます
- この暑さ 手をこまねいて 命かな
- 我が暮らし 薬が一つ 増えました
- 薬漬け 思いもよらぬ 薬漬け
- ファマシー あちこちにあるの 納得す
- 我が暮らし 薬が増えて 新世界
- 酷暑なり 酷暑なり嗚呼 酷暑なり
- 投票に 行きて着替える 酷暑かな
追加投稿
熱帯夜 クーラーつけて しのぎけり
胡瓜買い 酢につけ置いて 涼をとる
この暑さ 外も静かに 眠りたり
この暑さ 店に出る気も 失せにけり
夏が来た ぶっかけ飯の 旨し時期
この暑さ ジェットの音の 気だるさよ
▶︎投稿者 Mandara
- 梅雨晴れに両足広げる猫が夢
- 真夏日にうな垂れしかな薔薇の花
- うだる日に大の字になり”きなこ”かな
- 緑濃き入間の川に鮎きたり
- 梅雨晴れに雑草繁る裏ばたけ
- 真夏日に頭に湯気出し河原ゆく
▶︎正岡子規 七夕にちなんだ名短歌抜粋
「真砂なす数なき星の其の中に吾に向いて光る星あり」
リレー式人物伝 伊藤博文 政治家
### 生い立ち
伊藤博文 1841年10月16日 – 1909年10月26日
– **本名**: 林利助。のちに伊藤博文に改名。
幕末から明治時代にかけて活躍した日本の政治家。初代内閣総理大臣(首相)としても知られています。
長州藩周防国(すおうのくに)に農民の子として生まれました。幼い頃は貧しく、親が出稼ぎに行っており、一人っ子の博文は母の実家に預けられました。
萩に移り住み一家で暮らし始めると、寺に読み書きを習いに行きました。父が伊藤家の養子となり、博文も足軽の身分になりました。
1856年、15歳のときに藩命で浦賀の警備につきますが、その翌年には長州に戻り、吉田松陰の松下村塾に入ります。松下村塾では高杉晋作らと学びました。18歳のときには、桂小五郎の従者となって江戸に行き、尊王攘夷運動に参加します。
### 政治キャリア
– **幕末期**: 長州藩士として尊王攘夷運動に参加し、倒幕活動に関与。
– **明治維新後**: 明治政府に参加し、外交や内政において重要な役割を果たす。
– **初代内閣総理大臣**:
1885年12月22日に日本の初代内閣総理大臣に就任し、計4回の任期を務める。
### 主な功績
– **大日本帝国憲法の制定**: 1889年、大日本帝国憲法の制定に尽力し、立憲政治の基盤を築く。
– **内閣制度の確立**: 内閣制度の導入により、近代日本の行政システムを確立。
– **外交活動**: 日清戦争後の下関条約(1895年)や日露戦争後のポーツマス条約(1905年)など、多くの重要な外交交渉を担当。
### 晩年と死因
– **韓国統監**: 1905年から韓国統監として朝鮮半島の統治にあたる。
– **暗殺**: 1909年10月26日、ハルビン駅にて韓国の独立運動家・安重根によって暗殺される。
人脈
伊藤博文の交友関係は、日本国内外に広がり、多くの政治家や学者、外交官、軍人などと関係を築いていました。以下に主要な人物との関係を挙げます。尚、松下村塾では高杉晋作とも交流があった。
### 日本国内の交友関係
– **木戸孝允(桂小五郎)**: 同じ長州藩出身で、倒幕運動から明治政府設立まで共に行動した盟友。
– **大久保利通**: 薩摩藩出身の政治家であり、明治維新後の政府で協力して働いた。
– **西郷隆盛**: 同じく薩摩藩出身で、明治維新の立役者の一人。西南戦争後の関係は微妙だったが、互いに尊重し合っていた。
– **大隈重信**: 政治家・学者として活躍し、伊藤と共に近代日本の政治体制の確立に寄与した。
– **山県有朋**: 同じ長州藩出身の軍人であり、政府内でも協力して働いた。
– **井上馨**: 長州藩の同僚で、外交分野で多くの協力を行った。
### 主に明治憲法制定に関わる交友関係
– **オリバー・ウェンデル・ホームズ**: アメリカの法学者であり、伊藤が大日本帝国憲法を起草する際に参考にした。
– **オットー・フォン・ビスマルク**: ドイツ帝国の首相。伊藤はドイツを視察した際にビスマルクと会い、憲法制定の参考にした。
– **カール・モール(Carl Möller)**: ドイツの法学者であり、伊藤が日本の憲法起草の際に助言を求めた。
– **ヘルマン・ルムシュテルン**: ドイツの法律顧問で、伊藤の憲法制定に協力した。