朝食‖ ロカボ食BaceBread1個 薬忘れ
→ 買い物 ‖ 野菜、魚、ふりかけ
昼食‖ガストにて。ここは昼時でなければガラガラ空いている。冷房は強すぎるぐらいだ。真夏日に家が暑すぎる時使える。
夕食‖日高屋、帰宅後 野菜サラダ
図書館まで足を伸ばした。最低7000は超えるだろう。⇒ 9417歩
ストレスの人体に及ぼす影響を考える
ストレスが病気の大半の原因と聴いたことがある。その昔、もう10年は軽くオーバーしているが、帯状疱疹を発症して三井記念に駆け込んだ時の事、診療する前に顔をみただけで、原因はストレスです、と明確に指摘された。今から考えると、ストレスが表情に現れていて、医師が直感で答えたのではあるまいか、と考えることもある。それほど、ストレスが色々な病気にも影響するということなのだろう。実際、ある程度はロジック的(実は直感的)にも納得・理解できる。
私はこのことを次のように考えることにしている。
ストレスとは、感じ方の問題である。同じ事でも感じ方は人それぞれである。たまたまある種のストレスに弱ければそれは、その事象による影響度が大きい個性だということになる。これは適性というか、この世に存在している意義にも関係する。
中断。
内村鑑三 ⇒ 人間模様
⇔夏目漱石 ‖ 内村とは同じく第一高等中学校(後の東京大学)で学びました。内村の影響を受け、漱石は一時期キリスト教に興味を持つようになりましたが、後に自身の文学的探求に専念するようになりました。
⇔植村正久 ‖ 日本のキリスト教牧師であり、早稲田大学の教授でもありました。内村と植村はキリスト教の教義や日本の社会問題について頻繁に議論し合いましたが、後に信仰の解釈を巡って意見の相違から対立することもありました。
⇔横井時雄 ‖ キリスト教伝道者であり、内村と共に無教会主義を提唱しました。彼らは日本のキリスト教界において、形式的な教会組織に依存しない信仰のあり方を追求しました。
⇔徳富蘇峰 ‖ ジャーナリスト。後に日本の思想界に大きな影響を与えた人物です。内村と徳富は、明治初期の若手知識人グループ「自由民権運動」に関わり、同時代の日本の社会問題について議論を交わしました。
⇔新渡戸稲造 ‖ 抜粋済 ‖ 農学者であり、「武士道」の著者としても知られる人物です。内村とは学生時代からの友人であり、共にキリスト教の信仰を共有していました。新渡戸の影響で、内村はアメリカ留学を決意するなど、互いに影響を与え合いました。
1863年 – 1957年(江戸後期〜昭和32年)
→ 享年95、長生きしたようです。
明治から昭和期の著名なジャーナリスト、評論家、歴史家、そして思想家です。
参考記事URL https://news.kodansha.co.jp/20150910
経歴と主要な活動
#### 1. 生い立ちと教育
徳富蘇峰は、熊本県に生まれました。彼の家系は学問を重んじる家柄であり、兄の徳富蘆花も有名な作家でした。蘇峰は、幼少期から漢学や洋学に触れ、後に上京し現在の東京大学で学びました。
#### 2. 「民友社」と「国民之友」
1887年(明治20年)、蘇峰は「民友社」を設立し、雑誌「国民之友」を創刊しました。この雑誌は、自由民権運動* の精神を引き継ぎ、民主主義や平等主義を訴え、多くの若手知識人に影響を与えました。彼の主張は当時の政治や社会の改革に大きな影響を与えました。
注記* 自由民権運動 ‖ 板垣退助は、少数の有力者による政治をやめ、民撰議院(つまり 国会 )を開くべきだと考えた。この考えが自由民権運動の出発となりました。当時は、大久保利通ら、少数の有力者による「専制政治」が行われていたのです。
#### 3. 思想の変遷
初期の蘇峰は、自由民権運動を支持し、平等主義や民主主義を掲げていましたが、日清戦争(日露戦争後)を経て、次第に国家主義的な思想へと転向しました。彼は、日本の近代化と軍事的な強化を強く支持し、帝国主義的な立場を取るようになりました。
#### 4. 著作活動
蘇峰は多数の著作を残し、その中でも「近世日本国民史」などの歴史書は広く読まれました。彼の著作は、時代の動きを捉えつつ、日本の将来を見据えた視点で書かれており、学術的価値も高いものとなっています。
主要な影響
徳富蘇峰の影響は多岐にわたります。
初期には、自由民権運動や民主主義思想を通じて、若い知識人たちに大きな影響を与えました。
また、後期には、国家主義的な立場から日本の政治や軍事政策に対する支持を表明し、戦前の日本の国策に対しても影響を及ぼしました。
彼の思想の変遷とその影響力は、明治から昭和にかけての日本の社会や政治の変動を理解する上で重要です。
交友関係
### 1. 内村鑑三(うちむらかんぞう)
内村鑑三は、蘇峰と共に明治初期の自由民権運動に関わりました。二人は若い頃から親しく、共に日本の社会問題やキリスト教について議論を交わしました。しかし、後に信仰や政治的立場の違いから意見の対立も見られました。
### 2. 新渡戸稲造(にとべいなぞう)
新渡戸稲造は、蘇峰と同じく自由民権運動に関心を持っていた人物であり、教育者としても知られています。新渡戸と蘇峰は共に日本の近代化に関心を持ち、時折交流していました。
### 3. 福沢諭吉(ふくざわゆきち)
福沢諭吉は、明治時代を代表する啓蒙思想家であり、蘇峰に大きな影響を与えました。福沢の影響で蘇峰は、西洋の自由主義や民主主義の思想に触れ、それを日本に紹介する役割を果たしました。
### 4. 森鴎外(もりおうがい)
森鴎外は、蘇峰と同時代に活躍した文豪であり、医学者でもありました。二人は文学や思想の面で交流があり、お互いに影響を与え合いました。
### 5. 大隈重信(おおくましげのぶ)
大隈重信は、日本の政治家であり、明治から大正期にかけて首相を務めました。蘇峰と大隈は、政治的な立場や日本の将来について頻繁に意見を交わしました。
### 6. 山県有朋(やまがたありとも)
山県有朋は、明治時代の元老であり、軍人としても知られています。蘇峰は山県とも親交があり、特に国家主義的な思想へと転向して以降、山県の軍事政策を支持しました。
### 7. 木下尚江(きのしたなおえ)
木下尚江は、社会運動家であり、特に社会主義運動に関与していました。蘇峰と木下は思想的には異なる立場にありましたが、共に明治期の社会改革に対する関心を持ち続けました。
▶︎徳富蘇峰の交友関係は、彼の思想や活動の幅広さを示しています。彼は、政治、文学、思想の各分野で多くの人物と交流し、互いに影響を与え合うことで、自らの思想を深化させ、また日本社会に対しても多大な影響を与えました。
▶︎▶︎思想の深化の結果、初期の民主主義的な啓蒙思想から軍事的な国家主義に移って行った動機は、どこにあったのだろうか。
✍️ 話合いで決める民主主義と一部のリーダーの独裁的な政治、どちらが良いのかは時代背景もみなければ解釈はできない。ベストはないのが人間社会の難儀なところである。ニュースでも選挙制度の改正に向け議論が開始されるそうだ。
ChatGPT-4oは、ChatGPT3.0に比べて一段と進化しているので、新たな使い方を思いついた。ChatGPT-4oを使うようになってから、もはや記憶にそれほど労力を使う必要がなくなった。
例として取り上げるシチュエーション
アボガドを買ってきた。すごく硬くて食べられない。さて、どうするか?と考えていたのだが、ここでChatGPT-4oに尋ねてみようと思いついた。
質問(プロンプト)>硬いアボガドの食べ方は?
以下回答。すぐに回答が出てきて役立つことがわかりました。メモの必要もなく、忘れても都度、質問すれば済みますね😸
硬いアボカドはまだ熟していないため、そのまま食べると美味しくないことが多いです。しかし、いくつかの方法で硬いアボカドを食べることができます。
1. 追熟させる方法
硬いアボカドを柔らかくするために、数日間追熟させることができます。
- 常温で放置: アボカドを常温に置いておくと、数日で自然に熟してきます。紙袋に入れると熟す速度が速くなります。
- バナナと一緒に: アボカドをバナナやリンゴと一緒に紙袋に入れると、これらの果物が放出するエチレンガスによってアボカドが早く熟します。
2. 加熱して調理
硬いアボカドを加熱することで、柔らかくして食べることもできます。
- 電子レンジ: アボカドを半分に切り、種を取り除いてからラップで包み、電子レンジで30秒から1分程度加熱します。これにより、柔らかくなりますが、風味が若干変わることがあります。
- オーブン: アボカドをアルミホイルで包み、オーブンで200度(華氏で約400度)に予熱した状態で10分から15分程度加熱します。これにより、アボカドが柔らかくなります。
3. 硬いまま調理するレシピ
硬いアボカドをそのまま使うこともできます。
- サラダ: 硬いアボカドをスライスし、サラダの具材として使用します。硬めのアボカドはシャキシャキとした食感を楽しむことができます。
- 炒め物: 硬いアボカドを薄くスライスして炒め物に加えると、他の野菜と同じように扱うことができます。
- スムージー: 硬いアボカドを小さく切り、スムージーに加えると、栄養価を高めることができます。他のフルーツや野菜と一緒にブレンドすると、硬さが気になりません。
注意点
アボカドは一度加熱すると風味や食感が変わることがあります。また、追熟させる際は定期的に触って柔らかさを確認し、過熟にならないように注意してください。