▶︎朝食‖ 6:00-ロカボ食玄米100g
→→ お見舞いついでに、モモ、三切れ。
▶︎昼食‖外食 ‖ サラダ→肉料理→コーン→白米80g程度。
▶︎夕食‖21:00-22:00-ロカボ食(サラダ、納豆、人参7片)玄米100g 時間遅い
▶︎間食‖無し
▶︎運動 8000歩
▶︎血圧(22:00 118.64.70)正常。
▶︎体重 54.3kg
▶︎mm>老化による細胞の減少例(下記)
「肝臓は75歳にもなると老化により最盛期の細胞数の半数程度になる」
<精神科医の老化の研究書籍から。書籍名 ‖古本 >
同書で、筋肉量は鍛えれば減少しない、と。⇒体験的に間違いである。
カラスども また雷神を 威嚇せり
雷神は 大粒の雨 放ちたり
遠雷を 察知して啼く カラスども
この暑さ 重い腰上がらず 日が暮れる
武蔵野線 アチコチからの 異国音
決壊に 芭蕉もビックリ 最上川
ガンゴンと 冷して涼し 我が居室
一大事件 米櫃に虫後発生
先ほど玄米を炊く準備をしようと、玄米の保管庫を開けた。すると、中にたくさんの孵化した蛾のようなものが湧いて飛び交っている。メガネが合わなくなってはっきり見えないだけに、恐ろしい。慌てて外に払い出そうとするが、たくさんすぎて手に負えない。
さぁ、どうしたものか?
帰宅したばかりで疲れが先行する。中断💦
📌 22:00- 夕食後。
🔻捨てることにした。⇒ ものを粗末にする悪弊を反省して、天日干し。
ノシメマダラメイガは蛾の仲間で、お米や小麦粉などの食品に卵を産み付けます。ノシメマダラメイガは一度に数百個ほど産卵するため、米びつの中に1匹の幼虫を見つけた場合、想像以上の数が潜んでいる可能性が高いと考えておきましょう。
お米に虫が侵入する原因は、外から虫が侵入することです。虫は常に侵入の機会を狙っていて、米びつの中に入り込むと米を食料として成長していきます。お米にわく虫は複数存在し、中には米袋を食い破って中に入る虫もいるため、袋に入れているからと言って安心はできません。また、保存場所や温度にも要注意です!
参考URL https://okamotonojo.com/4089.html
▶︎軒下の風通しの良いところへ米を天日に晒す。しばらくすると、外へ出てくるので、駆除する。時々かき混ぜては3時間程度繰り返す。最後は、米を水に浮かべて、浮いてくる米は齧られているので捨てる。虫自体は無害なので、いつもより強くゴシゴシすすぐ。最後はざるに入れて水を切り、乾かし、密閉容器に入れて15℃程度の温度に保てる冷蔵庫に入れて保存する。
翌日8/6 16:10〜18:10 3時間予定 ‖ 雨なら中断
駆除→ じっと見ると、蟻とか別の害虫が入らないよう注意する必要がありそうだ。ゴザとか、もっと広い敷物が望ましい。
天気予報→ 丁度雷雨になりそう。なので目視で虫を排除し、一旦密閉容器に戻した。
保管場所→ 居間に置いた。15℃が適温と書いてあるが…キッチンは暑くなりがち。冷蔵庫も大きくないと無理だ。自炊をこのまま継続するなら、大きな冷蔵庫を用意し、裏庭に野菜畑にして畑仕事の知識も必要になる。
狩野永徳 ⇒ 狩野山楽 次 ‖ 狩野探幽
狩野山楽(かのう さんらく)
1559年 – 1635年 享年77
日本の安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した画家であり、狩野派の重要な人物の一人です。本名は「狩野孫市(まごいち)」であり、後に「孫六」とも名乗りました。
1. 出自と初期の経歴
- 出自:狩野山楽は、狩野派の創始者である狩野正信の孫であり、狩野永徳の弟子としてその才能を開花させました。
- 学び:山楽は狩野永徳から絵画の技術を学び、その後継者として狩野派を支えました。特に、永徳の死後に狩野派の中心人物として活動しました。
2. 作風と技術
- 作風:狩野山楽の作風は、豪壮で力強い永徳のスタイルを引き継ぎつつも、より繊細で優雅な表現を加えました。特に障壁画や屏風絵でその才能を発揮しました。
- 技術:山楽は、金箔や鮮やかな色彩を駆使した豪華絢爛な装飾技法を用いることで知られています。彼の作品は、当時の日本文化の豊かさを象徴しています。
3. 主な作品
- 養源院障壁画:京都の養源院にある障壁画は、山楽の代表作の一つとされています。
- 二条城障壁画:江戸時代初期に徳川家康の命で制作された二条城の障壁画も、山楽の代表作の一つです。
二条城障壁画 展示収蔵館
4. 師弟関係と影響
- 弟子たち:山楽の弟子には、狩野探幽(かのう たんゆう)などがいます。探幽は後に狩野派の中心人物となり、江戸時代の狩野派を代表する画家となりました。
- 影響:狩野山楽の作品と技術は、後世の日本画に多大な影響を与えました。彼の技法や美的感覚は、狩野派の後継者たちによって継承され、日本の美術史において重要な位置を占めています。
◾️人脈
狩野山楽(1559年 – 1635年)の人脈については、彼が関わった人物や影響を受けた・与えた人物を中心に考えることができます。以下に、主な人脈を挙げます。
### 1. 狩野派の関係者
– **狩野永徳**:山楽の師匠であり、狩野派のリーダー。永徳から直接指導を受け、その後継者として活躍しました。
– **狩野探幽**:山楽の弟子であり、後に狩野派を代表する画家となった人物。探幽は江戸時代初期の狩野派を引き継ぎ、大成させました。
### 2. 戦国大名・武家
– **豊臣秀吉**:秀吉の時代に活躍した山楽は、豊臣家の庇護を受け、多くの重要な作品を制作しました。特に、聚楽第や大坂城の障壁画を手がけました。
– **徳川家康**:家康の命により、二条城の障壁画などを制作。江戸時代初期においても徳川家との関係が深かった。
### 3. 文化人・学者
– **千利休**:茶道の大成者であり、山楽の作品には利休の影響が見られることもあります。彼の茶の湯文化と山楽の絵画は、当時の文化的な交流を示しています。
– **細川幽斎**:学者であり、文化人。山楽の絵画が公家や文化人の間でも高く評価されていたことを示します。
### 4. 宗教関係者
– **養源院**:山楽が制作した養源院の障壁画は、宗教施設との関係を示しています。寺院や神社との関係も深く、その作品は宗教的な場面でも重要視されました。
### 5. 同時代の画家・芸術家
– **長谷川等伯**:同時代に活躍した画家であり、山楽と同じく豊臣政権下で活動。競争や協力を通じて、山楽の技術や作風に影響を与え合った可能性があります。
狩野山楽の人脈は、当時の政治的・文化的な中心人物たちと深く結びついており、彼の作品はこれらの人物との関係性を反映しています。彼の作品と活動は、狩野派の発展と繁栄に大きな影響を与え、日本の美術史において重要な位置を占めています。