食事
以下、3食をロカボ食を心がけている。が、カロリーは一般に1600kcal〜2000kcalらしいが、私には多すぎる感じである。お腹と相談しているが、およそ1400kcal〜1500kcal程度と思われる。
▶︎朝食‖
▶︎昼食‖
▶︎夕食‖ 課題 / 19:30-20:30 もう少し早くする。
mm> いつもの傾向であるが、水分の取りすぎでいつもお腹の中に水分が溜まっている感じがする。医者から水分補給をよく指導されるが、どうも疑問だ。
運動
ウォーキング 午前 4000 午後
その他
聖徳太子
夏目漱石
福沢諭吉
野口英世
伊藤博文
樋口一葉
板垣退助
新渡戸稲造
渋沢栄一
📌 津田梅子
北里柴三郎
岩倉具視
二宮尊徳
高橋是清
▶︎岩倉使節団については別項参照◀︎
生年月日:1864年12月31日東京生まれ
死亡日 :1929年8月16日 64歳、享年66
お札でも有名な津田 梅子は、日本の女子教育家。日本初の女子留学生の一人で、現在の津田塾大学の創設者であり、日本における女子教育の先駆者として評価されている。</Wikipedia>
主な経歴
1. 初期の留学
• 1871年:わずか7歳で岩倉使節団に随行し、アメリカに留学。フィラデルフィアで教育を受ける。
• 1882年:日本に帰国。
2. 教育者としての活動
• 1885年:再度アメリカに留学し、ブリンマー大学で教育学を学ぶ。
• 1890年:帰国後、女子教育の改革に尽力。日本女子大学校(後の津田塾大学)を創設。
3. 津田塾大学の創立
• 1900年:津田英学塾(後の津田塾大学)を設立。女子の高等教育を推進し、英語教育にも力を入れる。
4. 晩年
• 1929年:日本で死去。彼女の功績は今なお評価されており、津田塾大学は彼女の遺志を継ぎ、女子教育の中心的存在となっている。
津田梅子は、その先見性と情熱をもって、日本における女子教育の基盤を築いた人物として、日本の教育史に名を残しています。
◾️女子留学生リスト
1. **津田梅子**
– **生年**:1864年
– **留学時の年齢**:7歳
– **留学先**:アメリカ(フィラデルフィア)
– **帰国後の功績**:津田英学塾(現 津田塾大学)を創立し、女子教育に尽力。
2. **山川捨松(やまかわ すてまつ)**
– **生年**:1860年
– **留学時の年齢**:11歳
– **留学先**:アメリカ(ニューヘイブン、ニューヨーク)
– **帰国後の功績**:日本赤十字社で看護師として働き、婦人活動に貢献。
3. **永井繁子(ながい しげこ)**
– **生年**:1861年
– **留学時の年齢**:10歳
– **留学先**:アメリカ
– **帰国後の功績**:明治政府で働き、その後結婚し家庭に専念。
4. **吉益亮子(よします りょうこ)**
– **生年**:1862年
– **留学時の年齢**:9歳
– **留学先**:アメリカ
– **帰国後の功績**:帰国後、教育や社会福祉に関わる活動を行った。
5. **岡見京(おかみ みやこ)**
– **生年**:1863年
– **留学時の年齢**:8歳
– **留学先**:アメリカ
– **帰国後の功績**:帰国後、教育や社会活動に携わり、日本の女子教育の発展に寄与。
◾️女子留学生らの人脈
### 津田梅子
– **津田塾大学**:津田塾大学(旧・津田英学塾)を設立し、教育者として多くの女性に影響を与えた。
– **大隈重信**:大隈重信(政治家、早稲田大学創設者)とは親交があり、彼からの支援を受けた。
– **アリス・ベーコン**:アメリカ留学時の友人であり、日本でも再会し、共に女子教育の発展に努めた。
### 山川捨松(すてまつ)
– **山川健次郎**:兄であり、東京帝国大学総長などを務めた。彼の影響も大きかった。
– **日本赤十字社**:日本赤十字社で看護師として活動し、医療関係者との繋がりを持った。
– **津田梅子**:津田梅子とは留学時代からの友人であり、帰国後も交流があった。
### 永井繁子
– **岩倉具視**:岩倉具視の推奨により留学し、彼の政治的な影響を受けた。
– **明治政府の官僚**:明治政府で働く中で、多くの官僚や政治家との繋がりを持った。
### 吉益亮子
– **教育界の関係者**:帰国後、教育や社会福祉に関わる中で、多くの教育者や福祉関係者との繋がりを持った。
– **福沢諭吉**:福沢諭吉(啓蒙思想家、慶應義塾創設者)の影響を受け、その思想を広めた。
### 岡見京
– **社会活動家**:帰国後、教育や社会活動に携わる中で、様々な社会活動家や教育者との繋がりを持った。
– **女性活動家**:女性の権利向上や教育に関する活動を通じて、多くの女性活動家と交流した。
岩倉使節団
岩倉使節団は、明治初期に日本政府が欧米諸国に派遣した大規模な外交使節団です。
派遣期間 1871年11月〜1873年9月
派遣先 訪問国参照
メンバー 計107人(正式メンバーは46人)
▶︎岩倉使節団の主要メンバー◀︎
特命全権大使は岩倉具視で、副使に木戸孝允、大久保利通・伊藤博文、随員として山口尚芳、西郷従道、他に一等書記官田辺太一、福地源一郎、以下二等、三等、四等書記官、大使随行、理事官、留学生など。
## 目的
1. **条約改正交渉**:不平等条約の改正を試みる。
2. **近代化の視察**:欧米諸国の政治、経済、教育、産業などを視察し、近代化の手本とする。
3. **技術と知識の導入**:最新の技術や知識を学び、日本の発展に役立てる。
## 訪問国
使節団はアメリカ合衆国を皮切りに、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどを訪問しました。各国で政府高官や専門家と会談し、多くの施設を視察しました。
## 結果
1. **条約改正交渉の不成功**:当初の目的であった不平等条約の改正には至らなかったが、これにより日本の国際的な立場を再認識した。
2. **近代化の促進**:欧米の先進的な制度や技術を学び、日本の近代化政策(文明開化)に大いに影響を与えた。
3. **教育と技術の発展**:使節団に随行した女子留学生(津田梅子を含む)やその他の技術者が、帰国後に日本の発展に貢献。
岩倉使節団は、日本の明治維新後の近代化において非常に重要な役割を果たしました。彼らの視察と学びは、日本の急速な近代化の基礎を築く一助となりました。