日記240819(月)晴 33℃

相変わらずの猛暑日である。玄関に猫の出入り隙間を作ってウォーキング開始。

昨日の外出は結果、不摂生につながった。腸内環境が悪化しているので、空腹を待っている。

📌 14:00 帰路ウォーキング

📌 17:30- 突然バリバリドカンとカミナリ、どこかへ落雷したか。21時まで雷雨の予報。

雷神や 突如わが家に 轟きぬ

雷鳴や    河原の闇に     神宿り

📌 21:00- going to bed​

ニュース (休刊日 日経電子版より)

自民総裁選の動き活発 / 石破氏出馬へ、小林氏午後会見

9月の自民党総裁選に向け、小林鷹之前経済安全保障相は19日午後に出馬を表明する。石破茂元幹事長も週内にも地元の鳥取県で立候補を明らかにする見通しだ。総裁選は10人を超える候補の名前があがり、推薦人の奪い合いが激しくなる。

小林氏は午後2時に記者会見を開き、総裁選に出ると発表する。今回の総裁選で推薦人確保の見通しをつけて出馬を正式表明する最初の候補になる。🔻

16:01 update 自民党の小林鷹之*1前経済安全保障相は19日、国会内で記者会見し、9月の党総裁選に出馬すると正式表明した。「自民党は、生まれ変わる」「世界をリードする国へ」を掲げて党の刷新を訴えた。今回の総裁選を巡り記者会見を開いて出馬を表明したのは小林氏が初めてとなる。

自民党総裁選、9月27日投開票の方針

Screenshot

米企業、「株主第一」の見直し進まず 労働分配率が低下

米企業が掲げた「株主第一主義の見直し」が進んでいない。利益配分の株主偏重を改め、従業員や地域社会への還元を厚くすると大手企業が宣言してから5年がたった。(ところが)労働分配の比率は低下する一方、巨額を株主に還元している。✍️お金がお金を引き寄せる株主資本主義であるが、それを改善しようと(≒公益資本主義)アドバルーンをあげて5年、何も改善されていないということのようだ。

(*1)小林鷹之氏のプロフィール

小林鷹之(こばやし たかゆき)は千葉県選出の衆議院議員であり、防衛政策や国際安全保障などを専門分野としています。小林氏は東京大学法学部を卒業後、ハーバード大学で国際関係の修士号を取得しました。国会では、特に安全保障関連の法案に関わる活動を行っており、政策提言にも積極的です。

彼はまた、元防衛副大臣としても知られ、防衛省における政策策定に深く関与しました。小林氏は、日本の防衛力強化や日米同盟の深化に重点を置いており、これらのテーマについての発言や活動が多く見られます。

彼の政治キャリアは、自民党の若手政治家としての地位を確立しつつあるなかで、総裁選においも注目される存在となりました。

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人生100年時代に挑戦/健康維持の行動記録

食事

朝食‖ 野菜と豆腐のみ。腸内環境がよろしくない。昨日の不摂生の影響である。空腹を待って、腸内環境を整えるべし。

→ 食材 ‖ 緑豆モヤシ、卵、トマト、白菜 ‖ 在庫 / 人参、バナナ、きゅうり、ナス、キャベツ

昼食‖ロカボ食玄米120g2P、牛乳🥛、今川焼き1個、ホッケ、納豆バナナ2P Σ≒8P ‖ 640kcal 食材加工、ゆで卵6個、煮魚、

⇒ 生協から仕入便到着 冷蔵庫オーバー

夕食‖19:00-20:00 ロカボ食

運動

4255歩数

その他

BaceBreadをよくみると食品添加物が気になり始めた。以後やめて自然食品で賄うことにする。

リレー人物伝(人を辿り歴史を知る)

小村寿太郎(こむら じゅたろう)

1855年 – 1911年 享年57

日本の明治時代の外交官である。

特に日露戦争後のポーツマス条約締結において重要な役割を果たしました。その他、外交官として重要な国際交渉に関与し、日本の近代外交の発展に貢献しました。

### 生い立ちと教育

小村寿太郎は1855年に肥前国(現在の佐賀県)に生まれました。幼少期から学問に優れ、特に英語を習得し、後に東京帝国大学(現在の東京大学)で法律を学びました。1875年には文部省に入省し、その後外務省に転じました。

### 外交官としてのキャリア

小村は、外務省での勤務を通じて外交官としてのキャリアを積み、さまざまな国際会議や条約交渉に参加しました。1894年には、日清戦争後の講和条約である下関条約の締結に貢献し、その後も様々な外交任務を果たしました。

### ポーツマス条約とその後

1904年から1905年にかけての日露戦争では、日本の勝利後の講和条約であるポーツマス条約の交渉を主導しました。この条約交渉は、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介のもと行われ、小村は日本代表として難しい交渉を成功裏に終わらせました。しかし、国内では賠償金を得られなかったことなどから、条約への不満が高まり、小村も批判を受けました。

### 晩年

小村はその後も外務大臣として日本の外交政策に関与しましたが、健康を害し、1911年に亡くなりました。彼の外交努力は日本の国際的地位を高めることに貢献し今日でも評価されています。

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