[514回目の投稿 closed]天気は晴、午後3時以降に雨、雷雨注意報⚠️新聞休刊日。
45リットルのゴミを集めてゴミ出し。朝食は欠食。コンビニでFチキ一口補い、あとは珈琲で済ませ1日がスタートする。久々に朝食を欠食し、その心地よさを満喫している。どうして朝食がそれほど大切なのだろうか、再度確認する必要がある。それを養生訓に落とし込まなくてはいけない。
📍 8:00- atドトール珈琲店 ThinkingTime
→ 新聞休刊日
📍 11:00- end of ThinkingTime
平安時代の貴族より暇な”きなこ”だ😺いきなり外すのが気の毒だと思っているうちに、足が痺れてきた。
📍 23:00- going to bed 就寝
米アップルが日本時間10日午前2時から特別イベントを開く。生成AI(人工知能)機能を搭載した新型スマートフォン「iPhone16」を発表するとみられる。生成AIへの対応ではライバルに出遅れたものの、人々の暮らしを一変させてきた巧みな商品開発力への期待はなお大きい。
✍️ 株価の変動には一喜一憂すべき理由は見つからないが、景気の先行指標としての価値はあろう。
目標やありたい姿を明確に定める「ビジョン型」を選んだ人が30%で最多だった。部下との対話からやる気や行動を促す「コーチング型」(25%)、メンバー全員から意見を聞いて意思決定を行う「民主型」(18%)が続いた。
リーダー自身が高いパフォーマンスを見せる「先導型」は11%にとどまり、細かく指示する「強制型」を選んだのは1%だった。[=日経電子版]
✍️ 誰もが納得するような結果ではなかろうか。ただし、リーダーの型はハッキリ区分できるわけもなく、混合している場合も多いと思われる。およそ傾向を知るのに役立つ程度である。
昔の同僚から一年ぶりぐらいか電話があった
掛けようとして手でも滑ったのか、躊躇したのか、出ようとしたらすぐ切れてしまった。すぐ掛け直したら数回ベルがなってから出た。
暇でしょうがないという。昔を思い出し、マイコンでロボットでも作ろうかと思ってやってみたけど、すぐ飽きてしまったという。
それはそうだ。
目的がない自由な立場で暇だからやってみる、というだけではそうなるだろうな。やることがそう簡単じゃないし。お互い、そのような認識まで理解しあって、今度会いにゆくことにした。
何か新しいものでも企画してみようかな、そんな気持ちも沸いた一瞬であった。
彼は暇だというが、私の方はいくら時間あっても足りないぐらいなので、彼の暇が勿体無い。活用させてもらおうかな、、、240908 ‖ 14:35
▶︎朝食‖ 欠食、Fチキと珈琲
▶︎昼食‖ロカボ食、コロコロ、シャケ1/4、トマト小2、大根煮、キムチ小皿.大根おろし(冷蔵庫に保管した分)、納豆、ゆで卵、帆立、主食は米飯104g、果物プラム1個、💊4種(朝の分) ‖ タンパク質十分❗️
※ ここで昼寝1時間、きれいなノンレム睡眠してしまった。
▶︎夕食‖ロカボ食、タンパク質、ご飯100g、焼酎ひとくち。不味く感じてやめた。
▶︎間食‖ナッツ数個
▶︎遠足 > 6000歩 ⇒ 3500+夜の部
▶︎縄跳び 150
▶︎その他
筋肉痛だ。夜9時までなんとか起きていたが、いつのまにか寝ていた。途中、23:00に目覚めたところ、肉体的疲労がどっと湧き出ている。縄跳びのもあるし、草むしりなどで余計な筋肉を使った結果だ。💤
▶︎貪らない。分かち合う。自然を破壊しない。
▶︎自分を大切に。他人を自分のように大切に。自分が幸せになり、初めて他の人の幸せを願うことが可能になる。ここに至るまでの考え方はインターネットでは明らかにはできない。が、 長い間考え続けて、ようやく至ったものである。割と硬く、頑固な考えになっているかもしれない。その自己流の考え方は、、
私の応援団は祖先である。なぜなら、我肉体は祖先から現世に送り届けられた、と仮定すれば決して孤独ではない。現界に誰が居なくなっても応援団はいる。である以上、多少孤独であっても、まずは祖先に喜んで貰わなくてはならない。前世か今世かにかかわらず、なぜか自分以外の人に喜んでもらえることが自己の生きがいと感じるようにできているのだから仕方がない。結果、困難にうちかって人生に勝利しなければならないと思う。
▶︎肉体は筋肉を使うためにある。動いた結果お腹が空き美味しく食事ができる。運動のご褒美だ。次に動物の中で人間に限るのかどうか不明であるが、精神的な充足も求めるのが人間。これ無くして幸せはない。運動と両壁を為す。
▶︎疑問の一つに「規則正しい食生活」は、野生味がない。つまり自然ではない。自然はそんなふうにはできていないはずだ。それが、なぜ健康に良いのか?何か矛盾を感じる。自然である中から、養生訓を見出すべきではないか?
- 貪らない、自然の恵みを分かち合う
- 節度を持ってバランス良いロカボ食
- 無理のない運動で汗をかく
- 医者や薬、保険に頼らない
- 自然を受け入れる
- 食事からはじめて社会活動全般に座右の銘を判断基準にする
- ちょっとの運動不足は縄跳び 24090507-
たくさんある商品から一つだけ選ぶ時のヒント
集団の「品質」を観察する材料として集団の1/3を使い、あらかじめ目星をつける。次の残りの2/3の中から!先の1/3の中で1番と等価かそれ以上の代物がみつかったら、それを選ぶ。
(条件)一度見た資料は2度と見れない(行列を成して眼の前を通過すると思えばよい)。やってくる個々の対象物は事前に定められた基準でランク分けされていることとする。
そうしないと、そもそも判別できない。
結論として、何かより良いものを選ぶとき応用できる数学の定理である。しかし、最初の1/3の中に偶然に最高の資料があったら、残りからは見つからないことになる、、これに対する回答はどうなるのかまだ理解し切れていないのかもしれない、
[=危うし人の国ニッポン]
y.Mandara 作
実際にカラスが持ち逃げしたことを聞いた記憶有り
▶︎のりさん投稿俳句
次々と 押し寄せる魔神 へこたれるな
入院し 病も気からと なりにけり
蝉しぐれ 終えて皆さん 土の中
日々に 朝食の時間 遅くなり
朝飯は 一つ覚えの シリアルで
老の身は 寝ても醒めても 怪我多し
▶mandara
ギラギラと 太陽照らす 残暑かな
緑山 青空広がり 残る夏
蝉時雨 いつかきた道 細い道
駄作でも その先続けば 宝道
秋風や 懐かしの道 赤トンボ
→ 西行
西行
西行(さいぎょう)
1118年 – 1190年 享年73歳
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の僧侶で、歌人としても著名である。
俗名は佐藤義清(さとうのりきよ)で、武士の家に生まれ、若い頃は北面の武士として京都の宮廷に仕えていたが、23歳の時に出家して「西行」と名乗り、僧侶としての道を歩んだ。
西行の生涯
- 出家と旅
西行は、出家後、全国各地を旅しながら仏道修行に励んだ。彼の旅の目的は、仏教の修行の一環としての精神的な探求と、自然を求めるものであった。特に、奥州(現在の東北地方)や四国、そして熊野(現在の和歌山県)などを訪れ、多くの和歌を詠んだことで知られている。 - 歌人としての西行
西行は、日本の自然の美しさや人間の心情を深く詠んだ和歌を多く残しており、その詩風は「西行調」として知られている。彼の和歌は、寂寥感や哀愁、自然との一体感を特徴とし、後の時代の多くの歌人に影響を与えた。代表作には、『山家集』という歌集がある。 - 自然観と宗教観
西行の和歌には、自然に対する深い愛情と畏敬の念、そして無常観が強く表れている。彼の歌の中では、桜や月、山川などの自然の要素がしばしば登場し、仏教的な無常観と結びついて詠まれることが多い。彼の自然観と宗教観は、浄土思想*と深く関連している。
浄土思想* ‖ 極楽浄土への往生を願う信仰
西行は「浄土宗」や法然の教えに影響を受けていたとされるが、一生を通じて特定の宗派に帰依したわけではなく、彼の歌や思想には自然や仏教の普遍的な教えが深く反映されている。
- 晩年
西行は晩年、吉野や河内(現在の大阪府)に住み、隠棲生活を送りながら創作を続けた。彼の詠んだ和歌は、中世の日本文学において高く評価され、特に『新古今和歌集』などの勅撰和歌集に多く採録されている。また、彼の人生そのものが、自由な精神と孤高の美学を体現したものとして、後世の文学者や芸術家に影響を与えた。
年たけてまた超ゆべしと思いきや命なりけり小夜の中山
これは西行が詠んだとされる有名な和歌である。「年を重ねて、まさかもう一度この小夜の中山を越えることになるとは思っていなかったが、命が長らえていたのだなあ」という意味合いである。この和歌は『新古今和歌集』に収録されており、西行の人生観や無常観を反映したものとして知られている。
1118年から1190年の間、日本は平安時代末期にあり、政治的・社会的な大変革の時期であった。この時期には、貴族の権力が衰退し、武士階級が台頭する過程が進行していた。以下にその概要を述べる。
1. 天皇家と藤原氏の勢力争い
平安時代の後半、藤原氏は摂関政治を通じて政権を握っていたが、11世紀末から12世紀初頭にかけて、天皇家が自ら政治を行う「院政」を開始した。特に、後三条天皇や白河天皇が主導した改革により、貴族や藤原氏の力が次第に弱まり、天皇家が直接政治を行うことが増えた。
2. 院政の時代
院政は、上皇(天皇が退位した後に上皇として実権を握ること)が主導する政治形態である。白河上皇(在位:1072年-1086年)は、院政を確立し、息子の堀河天皇に譲位してもなお実権を握った。この体制は鳥羽上皇(在位:1107年-1123年)や後白河上皇(在位:1155年-1158年)にも引き継がれ、長期間にわたって続いた。
3. 源平の争乱
この時期の大きな特徴は、源平合戦とも呼ばれる源氏と平氏の間の戦いである。平安末期、平氏の平清盛が一時的に権力を掌握し、1167年には太政大臣に就任して権勢を誇った。しかし、平氏に反発する勢力や源氏が台頭し、1180年に源頼朝が挙兵することで、源平の戦いが激化した。
1185年には源氏が壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし、源頼朝が権力を握る。この勝利によって、平安時代の終わりとともに、武士による支配体制が確立されていくこととなった。
4. 平安時代の終焉と鎌倉幕府の成立
1192年、源頼朝は征夷大将軍に任命され、鎌倉に幕府を開いた。これが日本最初の武家政権であり、平安時代から鎌倉時代への転換を象徴する出来事である。この体制のもと、武士が中心となる政治が行われ、貴族中心の平安時代とは大きく異なる社会が形成されていく。
5. 文化と宗教の動向
この時期には、平安時代の文化が完成期を迎え、貴族社会の「雅な文化*」が栄えた。同時に、仏教信仰が深まり、浄土宗や浄土真宗といった新たな宗教運動も現れる。また、和歌や物語文学もこの時期に盛んであり、『平家物語』はこの時代の武士社会の姿を描いた文学作品として有名である。
このように、1118年から1190年の間は、貴族政治の衰退と武士の台頭、そして新たな社会秩序の形成という大きな変革の時代であった。
雅(みやび)な文化とは、主に平安時代の貴族社会で栄えた洗練された文化を指す。雅な文化は、優美さ、洗練さ、感性の豊かさを重んじるものであり、当時の貴族たちが理想とした美的価値観を体現している。前章と重複する部分がある。
1. 文学と和歌
雅(みやび)な文化の中心には、文学があった。『源氏物語』や『枕草子』は典型的な例である。これらの作品は、貴族の宮廷生活や恋愛、自然への感謝が美しく描かれており、当時の洗練された感性が反映されている。和歌もまた、それを象徴する重要な要素であり、自然や季節の変化、恋愛の感情が繊細に詠まれた。
2. 礼儀作法と衣装
雅な文化には、厳格な礼儀作法や衣装の規定も重要な要素であった。宮廷での儀式や日常生活において、貴族たちは格式高い振る舞いや言葉遣いを重んじ、特に装束の色やデザインには細かな規則が存在した。十二単衣といった豪華な衣装も雅の象徴であった。
3. 芸術と音楽
書道や絵画も雅な文化の重要な側面であった。優雅な筆遣いや、繊細な彩色で描かれた絵巻物は、貴族たちの日常や感性を表現した。また、音楽では、雅楽や琴、琵琶などが用いられ、宮廷の儀式や催しを彩った。
4. 自然と美意識
雅な文化においては、自然との調和やその美を尊ぶ意識が非常に強かった。四季の移ろいや花鳥風月といった自然の現象は、文学や絵画、詩歌においてしばしば取り上げられ、その美しさが讃えられた。特に、桜や紅葉、月見といった自然現象を楽しむことが雅な感性の象徴とされた。
5. 宗教と精神性
当時の貴族社会では、仏教や神道などの宗教が強い影響を持っており、精神的な洗練や内面的な美しさが重視された。これも雅な文化の一部であり、物質的な豊かさだけでなく、心の豊かさを追求する姿勢がみられた。
この文化は、平安時代の貴族たちの美意識を反映したものであり、日本の伝統的な美学の基礎を築き、後の時代にも影響を与え、日本文化における美意識の源泉となっている。
✍️ 先日、同僚から、この時代の人たちは現代よりゆとりがあった、と言った発言を耳にしたので、1000年近く遡ったら、1000年分の歴史がないから、それだけでも暇があった時代ではないか、と返した。我々が義務教育で勉強している歴史や様々な学問の1000年近い年月分を学ばなくて済む、というだけで、のんびりできたことは疑いの余地はないのではないか。そう思うと、受験勉強など今の中高生の忙しさは気の毒だ。学ぶことが多すぎる。今や小学生から学校の帰りに塾通いだ。あと1000年もしたら学び切れなくなりはしないか、と心配にさえなる。
実際には、その心配が溶けてきた。人工知能が進化してきたからである。記憶より、創造性、個性がより価値のある時代がやってくる。学校教育も変革を求められることになる。