宗教と内なる神の存在
私は宗教を一概に否定しようとは思わない。多くの宗教には、人間の良心に深く共鳴する核のようなものが宿っており、道徳的・精神的な指針として、一定の普遍性を見出すことがしばしばある。
しかし、華美あるいは過度に荘厳な儀式、また恐怖心に訴えて信仰を強いるような行為には、私は慎重な距離を保ちたいと思っている。
そもそも、人間を含む生きとし生けるものの根底を動かしている「何か」の存在を、私は日常の中で絶えず感受している。この「何か」は、人格神や啓示宗教が説くような存在とは異なり、宗教体系の内に収まるものでもなく、言語や教義の射程を超えた、より根源的で、あらゆる利害や概念を超越した存在であると私は感じている。
ここで明確にしておきたいのは、私の立場がいわゆる無神論とは異なるという点である。無神論は、神や超越的な存在そのものを否定し、そうしたものを人間の営みにおいて不要と考える立場である。
一方で私は、既存の宗教の表現を超えた、何かしら根源的な実在や、宇宙的な秩序のようなものがあるのではないかと、感覚的・直観的に感じている。
それは、神を否定するというよりも、言葉で定義しきれない“何か”として、むしろ敬意をもって受け止めている態度である。
少し砕けた言い方をするなら、日本の神道における「八百万の神(やおよろずのかみ)」の考え方に近いかもしれない。自然のあらゆるものに神性を見るような視点だ。それは決して特異な思想ではなく、日本人の心の深層に古くから根づいている感覚でもあると思っている。
私はまだまだ浅学の徒である。この先、死に至るまで学び続ける宿命にある。未熟のまま終えるのははっきりしている。故に、少しづつ変わり得る存在であることを知っているつもりである。そして浅学であるが故に間違いがある、ということも。
眠くなり寝床の整理をしていて枕に触れた途端に記憶が蘇った。里親の母から、枕で叩かれたことを思い出したのだ。枕だから怪我とかはしなかったし、それほど痛いこともないのは当たり前なのだが、殴ったのは本気だった。それは、悔しくてなぐったのだった。特別に可愛がられていたというのはのちに知ったのだが、その時だけは本気で涙流して殴っていた。その落胆ぶりは今になってみても気の毒なのだが、誤解にもとづくことから始まったものだったのだ。眠くて書き込みが大変だが、忘れないうちにフラッシュバックした要点だけ書き込んでおこうと思う。なぜ殴ったかは理由ははっきりしている。ただ、その理由は、、、、。誤解とは、、、、である。、、、。眠くて進まない。明日暇を見て要点を完成させる。
▶︎250424 ノリさんの投稿
葉桜です もうこの気温 恐ろしや
青葉はえ 変調きたす この身かな
🔸250425(金)
日常訓、養生訓
▶︎食事療法
朝‖ アーモンドを三粒ほど口に入れ、💊3種接種して朝の散歩に出た。
朝食‖ 10:00-11:00

夕食‖18:00-20:00 ロカボ食
▶︎運動療法 ウォーキング 4,770歩
▶︎精神活動 ブログ記事作成、ウォーキング
▶︎その他 少しづつ、身の回りが片付きつつある。長年積み上げてきた、やりたいことの山を取り除き始めたからである。