ノリさん投稿
8.15 終戦の日だ 80年
我が齢より 一歳年上の 終戦日
特攻隊員は「志願」だったのか 死へ送り出す命令書、書く手が震えた[朝日新聞朝刊より]
✍️ 戦後の記憶の断片
新聞記事の見出しから、ひとつ思い出を書き留めておく。
「世界大戦」と聞いても、今の若者には遠い出来事だろう。私の世代も実戦は経験していない。知っているのは戦後史だけである。だが私は、敗戦宣言の直前に生まれた。人から見れば苦労の多い生い立ちらしいが、当人は幼いころから夢と希望しかなかった。夢はただである。東京や京都の名前を聞くだけで、一生に一度は行ってみたいと胸を膨らませた。もっともこの夢には条件があった。というのは父親がとても怖い存在で、夢のほとんどは父親のいない時のことではあった。尚、父親は仕事の都合で家にいない時期が多かったのが幸いであった(かどうかは本当はわからない)。
特攻隊の記録
7月中旬、鹿児島県南九州市の知覧特攻平和会館は、多くの見学者でにぎわっていた。展示されていた隊員の言葉――
「只今より出撃致します。実に喜び勇んで居ります」「天皇陛下万歳」
特攻隊は、航空機で乗員ごと敵艦に体当たりする自殺攻撃であった。戦況悪化の1944年10月、私が生まれる半年前、初めて米艦に突入。沖縄戦では九州や台湾からも出撃した。人間魚雷「回天」も作られ、約6千人が命を落とした。
✍️若き命を、あえて捨てに行くという選択は、どう考えても理解し難いものである。そこには戦局や命令だけでなく、集団心理による無言の圧力、いわゆる同調圧力が働いていたことは容易に想像できる。この心理は、日常のイジメや組織内の排斥にも通じるものであり、人間の弱さと恐ろしさを示す。過去の過ちとして、二度と繰り返してはならない。別稿にてもう少しテーマを深めたい。
戦後の子ども時代
私はこの時期を過ぎて生まれた。東京・中野区で、おそらく空襲の爪痕も色濃く残っていたはずだ。そんな中でよくぞ生き延びたものだと思う。周囲には悲しい出来事があふれていたが、自分は運がいいとしか思わなかった。なにせ遊びで忙しかったのだ。干してある生ピーナッツをもぎ取り(盗みだ😸)口いっぱいにほおばって走り回る――それが私の戦後数年の記憶である。
2025/8/15記
【メモ】広島と長崎への原爆投下やソ連の参戦などを受けて、1945年8月14日にポツダム宣言の受諾を決定し、戦争終結、敗戦が確定。翌15日には昭和天皇による玉音放送で国民に伝えられました。
[原爆投下日時]
広島: 1945年8月6日 午前8時15分
長崎: 1945年8月9日 午前11時2分
▶︎健康記録 70/100
▶︎食事療法
☀︎朝食‖ 繊維質(キャベツ、もやし)、タンパク質(シャケ、豆腐)、大葉5枚、調味料 ‖ 炭水化物[玄米五穀米150g]、💊4種
☀︎昼食‖13:00-14:00ロカボ食、炭水化物150g💊ビタミンB12
☀︎夕食‖19:00-20:00ロカボ食、炭水化物130g💊2種
☀︎間食‖果物🍊名称不明[南国風]、ナッツ
▶︎運動 ウォーキング>8000 ‖ 6237
▶︎その他
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▶︎私の養生訓◀︎良いものより悪いものを摂らない病気を治すのは医者ではない生きるとは戦い老骨に不具合は無くても7つはあり貯めてはならないストレス、✖︎加工食品、食後30分以内に運動、自然から遠ざかるほど健康から遠ざかる、◎汝の食事を薬とせよ,ドカ食いしない