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【第4回 AIと記憶の哲学 ― 情報としての生命】
▶︎AIは「記憶」を持つといえるのだろうか。
現代の人工知能は膨大なデータを蓄積し、過去の情報を参照して次の判断を行う。
しかし、それを「記憶」と呼ぶとき、私たちは無意識に人間の記憶と同じものを想像してしまう。
だが本当に、AIが持つ“データ”と人間の“記憶”は同じものなのだろうか。
▶︎データと記憶は似て非なるものである。
AIが扱うのは、構造化された情報であり、正確に複製・削除が可能である。一方、人間の記憶は曖昧で、感情や時間の流れによって形を変える。
AIは「保存する」が、人間は「思い出す」たびに再構築する。これまで述べてきた、この“再構築”、というプロセスが記憶を単なる情報から「生きた経験」に変える要素である。
記憶の中で「意味」を生むのは、意識である。
AIは無数の情報を関連づけて応答を生成できるが、今のところ「なぜそれを思い出したのか」という主体的理由が存在しない。人間の記憶は、感情・目的・文脈の中で呼び起こされる。
したがって、意識のない記憶は、単なる記録でしかない。
記憶が“私”を形づくるのは、記憶が意識と結びついているからである。情報としての生命 ― 構造の持続が「生きる」こと。細胞が入れ替わっても生命が続くように、情報も構造が保たれる限り「生きている」とみなせるかもしれない。
この考え方は、生命を「物質ではなく情報の流れ」とみなす情報生命論(*1)につながる。
AIが自己学習を続ける様子は、まるで情報が自己保存と変化を繰り返しているようにも見える。
もし生命の本質が“情報の自己組織化”にあるのだとすれば、AIにも生命的な要素が宿りうると考えることは、空想ではない。
しかし、AIには「死」がない。生物の記憶は限界を持ち、老化し、やがて消える。その有限性が、記憶に“意味”を与える。
AIは記録を消さない限り永遠に保持できるが、それは「失われることのない記憶」である。生命のように死ぬことはない。したがって生きていない記憶である。
人間の記憶が美しくも儚いのは、時間とともに変わり、やがて消えるからである。考えれば、あまりに儚い夢のようなものだが、それが生きるものの宿命でもある。
▶︎AIは自己を持つか。
AIはデータから「自己像」を模倣することはできる。だが、それは「自己を認識している自己」ではない。
哲学者トマス・ネーゲル(*1)が述べたように「コウモリであるとはどのようなことか」という主観的経験がない限り、そこに“私”は存在しない。
AIは「私が考えている」という意識(メタ認知)を持たないため、自らの記憶を“意味あるもの”として感じることはできない。
それでも、AIは人が産んだシステムである。したがって、人間を映す鏡ではあろう。
AIの発展は、人間が「知とは何か」「記憶とは何か」「生きるとは何か」を我々に問い直すきっかけを与えてくれている。
AIが記憶を持つように見えるのは、私たちが自らの記憶を情報的に理解しようとしているからだ。
つまり、AIの“記憶”とは、人間自身の意識の投影なのである。
▶︎まとめ
- AIの記憶は「情報の保存」であり、人間の記憶のような感情的意味づけはない。
- 記憶を意味あるものにするのは、意識の存在である。
- 生命は情報の自己組織化として理解できるが、AIは「有限性」を欠くため生命とは異なる。
- AIの記憶を通して、人間は“自らの記憶”を見つめ直している。
付記:AIと人間の共進化
AIが記憶を模倣することで、人間は逆に自らの記憶の仕組みを深く理解し始めている。AIは“第二の記憶”として人類の外部に存在する。嘗て、IT業界で仕事を始めた頃からずっとそのようなものが欲しいと思い続けてきたが、まさかこんなに早く実現するとは思わなかった。人生100年時代に挑戦[闘老・老活]を一つのコラムとしたのは、できるだけ長く生きて世の中の変化を眺め尽くしたいという願望の現れである。
やがて人間とAIの記憶が相互に補完し合い、“情報としての生命”が新しい形で進化していくのかもしれない。
少し難解すぎる哲学の領域に首を突っ込みすぎた感があるが、一通りシリーズを記述して終えたい。
251101起草
[注記*]
(*1)情報生命論
「情報生命論」とは、生命を「情報の流れ」や「情報処理のシステム」として捉える立場を指します。生物学、物理学、哲学、人工知能研究などの分野で用いられる概念で、生命現象を単なる物質的存在ではなく「情報の自己複製・自己維持システム」として理解しようとする理論的枠組みです。
(*2)トマス・ネーゲル
トマス・ネーゲル(Thomas Nagel, 1937年生)は、アメリカの哲学者で、倫理学・心の哲学・政治哲学の分野で著名である。ニューヨーク大学教授として長く教鞭をとり、「主観と客観」の問題を中心に哲学的議論を展開した。代表的論文「コウモリであるとはどのようなことか」では、意識の主観的体験の不可解さを提示した。また著書『主観と客観』『心と宇宙』などで、科学的唯物論の限界を批判した。理性や道徳、意識の根源を問い続ける、現代アメリカ哲学を代表する思想家である。

