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役割と自己欺瞞 ― サルトルの実存主義(第7回)
実存主義を説明する有名な例として、ジャン=ポール・サルトル が挙げた「カフェのウェイター」の話がある。
サルトルは、あるウェイターの動きを観察した。彼はやや誇張されたほど機敏な動作で注文を取り、いかにも「ウェイターらしく」振る舞っている。まるで自分がウェイターという役割そのものであるかのように振る舞っているのである。
しかしサルトルは言う。本来、人間は単なる職業や役割そのものではない。ウェイターは「ウェイターである存在」ではなく、「ウェイターとして働いている人間」にすぎない。もし自分を完全にその役割だと思い込んでしまえば、人は自分の自由な存在であることを見失ってしまう。
サルトルは、このように役割の中に自分を閉じ込めてしまう態度を「悪い信仰(自己欺瞞)」と呼んだ。人間は職業や立場を持ちながらも、それ以上の可能性を持つ存在なのである。
老年になって仕事を離れると、多くの人が「自分とは何だったのか」と考える。実存主義は、役割の外にある本来の自分を見つめ直す機会を与えてくれる哲学と言えるのではないか。
さて、これだけでは漠然としている。そこで、「人間は職業や立場を持ちながらも、それ以上の可能性を持つ存在なのである」という視点から、私たちの人生の中でどのような実践があり得るのか具体例を考えてみたい。
たとえば会社員として長年働いてきた人が、退職後に地域活動を始める場合がある。会社では一つの役割を担っていたにすぎないが、人間としての可能性はそれだけに限定されているわけではない。
また、定年後に新しい学問を学び始めたり、楽器や芸術に挑戦したりする人もいる。若い頃には思いもよらなかった活動が、人生の後半になって新しい意味を持ち始めることもある。
人は社会の中でさまざまな役割を演じながら生きている。しかしサルトルの言うように、人間はその役割そのものではない。どの時点からでも、自分の生き方を新しく作り直すことができる存在なのである。
荘子とサルトルの比較
人はしばしば、自分の価値観こそ正しいと考え、相手をそこに合わせようとする。ここに人間関係の摩擦が生まれる。
中国の思想家・荘子は、この問題を「斉物論」という思想で説明した。荘子は、この問題を二千年以上前に鋭く指摘している。
人はそれぞれ違う立場から世界を見ているにすぎず、その違いに優劣をつけること自体が人間の思い込みであるという考えである。
ある人にとって正しいことが、別の人には誤りに見える。ある人にとって価値あるものが、別の人には無意味に見える。それは世界が違うのではなく、見ている立ち位置が違うだけである。
したがって、全ての人はその大小は違えど価値観が違うものである。それぞれが自分の立場から人生を見ているからである。また決して同じ立ち位置には立てないのはいうまでもなく、立ち位置はあらゆる面で完全一致はできない。自明の理である。
一方、西洋哲学のジャン=ポール・サルトルは、別の角度から同じ問題を語った。
サルトルはすでにシリーズ[002]にてのべたとおり、「人間は自由の刑に処されている」である。
人は、自分の人生を自分で選び取らなければならない存在である。誰かの人生を代わりに生きることはできないし、誰かに自分の人生を決めてもらうこともできない。
つまり、人は自分の人生の責任を自分で引き受けて生きるしかない存在なのである。
荘子の思想は、万物を同じものとして見て、執着を手放すことで自由に生きる道を示した。一方、サルトルの思想は、自分の選択を引き受けて生きることで自由を実現する道を示した。
方法は違うが、両者の結論はどこか似ている。
人は他人の人生を生きる必要はない。それぞれが、それぞれの人生を歩めばよい。
親子の関係もまた同じである。親は親の人生を生き、子は子の人生を生きる。
その距離が保たれてこそ、互いを尊重する関係が生まれる。
孤独とは、決して不幸ではない。
それは、自分の人生を自分の手に取り戻すための静かな時間なのである。
荘子は「逍遥遊」という言葉で、束縛から離れた自由を語った。
サルトルは「実存」という言葉で、自分の人生を引き受ける自由を語った。
東洋と西洋の思想は遠く離れているようでいて、最後には同じ場所にたどり着くのかもしれない。
ニュースメモ
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