2084 03
▶︎260409(木)晴/曇22〜4℃
6:00-
7:30-8:30 atローソン川寺店∟ ThinkingTime
[肉体の変化]左目という、与えられた肉体の部品。健康なうちは無意識のうちにその役割を果たしていたが、いざ不具合を自覚すると、そのありがたさが身に染みてくる。
不具合を感じながらゆっくりとウォーキングをしていると、衰えゆくこの先こそが「彼岸への道」なのだと改めて感じる。それは、将来が明確になったわけではないが、決して悪い心地ではない。
「今までできていたことができなくなる」という現実は、抱えていた欲望が果たされないことへの諦めを連れてくる。しかし、選択肢が閉ざされたことで訪れる妙な平穏感と共に、摩訶不思議な世界がひらけてくるのだ。
これこそが老境というものだろうか。ままならぬ身体から発せられる、穏やかな世界観。生きるエネルギーであったはずの欲望が消え失せてゆく「下り坂の景色」。そこに新しく、下方に広がる視界が眩しい。
→サルトルを学ぼう[008]を記す。
8:45- ウォーキング再開 🧑🦯 本日の朝のひと時は終える。
todolist[10:00〜11:00 むさし証券立ち寄り]
新任の支店長の挨拶を受けた。
私の場合、投資額としてはゼロが二つか三つ足りない規模ではあるが、だからといって正直に「資金がない」と言うことはしない。かといって、あるような素振りもしない。どちらも後で困るからである。
世間話をしながら、さりげなく情報を得るのが目的である。情報を引き出すには、こちらから話題を振らなければならない。
そんな雑談の流れの中で、イーロン・マスクの宇宙関連企業がIPOを予定しており、「一口どうか」という話が紛れ込んできた。
後で調べてみると、もし本当に上場するなら、世界中の投資家が一斉に資金を投じるだろう。そう簡単に割り当てが回ってくるものでもなさそうだ。
参考までにテスラ(TSLA)の株価を見てみると、2010年の上場時から現在(2026年4月)までで、約1700倍から2000倍という驚異的な上昇を記録しているらしい。
「50万円からでも参加できる」とのことであったが、果たしてそれほどの成長に巡り合えるものなのだろうか。

春霞 道ははるかに 家並みぼやけ 疲れたる 脚の重みや 春霞 春疾風 斬るかと見れば 温(ぬる)き風 入間川 斬り裂く風も 暖(だん)を帯び 春の風 鋭くともや 川の辺(べ)に 入間川 岸べを行けば 吹く風は 斬るかとばかり 暖(ぬる)き心地す 暖(あたた)かき 風に身を斬る 思いして 行きかう人も 春を急ぐか 柔(やわ)らかき 春の疾風に 身を任せ 斬らるるごとき 暖(だん)を感じおり
12:00-I got home.一日一生もこれでほぼ終えたり。
16:30-ウォーキング再開から帰宅。
20:00-食後の運動 15分間のストレッチ
♨️
🌇
22:00 The day is drawing to a close.
人間は未完成の存在 ― サルトルの実存主義(第8回)
実存主義の核心を一言で表すなら、人間とは「完成された存在ではない」という点にある。ジャン=ポール・サルトルは、人間はあらかじめ決められた性質を持つ存在ではなく、行動と選択によって自分を作り続ける存在であると考えた。
石や道具のような物は、最初からその用途や性質が決まっている。しかし人間はそうではない。どのような人間になるのかは、生きていく過程の中で少しずつ形づくられていく。つまり人間とは、常に「途中にある存在」なのである。
この考え方は、人生の見方を大きく変える。私たちは時に「もう遅い」「今さら変われない」と思うことがある。しかし実存主義の立場から見れば、人は最後の瞬間まで自分を作り続けている存在である。
老年の視点からすれば、この考えはむしろ希望を含んでいる。人は何歳になっても、選択と行動によって新しい自分を作ることができる。実存主義は、人生を完成した物語ではなく、最後まで書き続けられる物語として捉える哲学なのである。
▶︎ノリさん投稿
葉桜に 脱いだり着たり 忙しい
おはようございます☀
午前中は、洗濯日和!後は、部屋干しか。
孫も学校が始まりました。
環境が変わるので心配ですが、何とか過ごしてもらいたいものです――
この肉体を預かっている我の存在
サルトルの一般的な解説を試みながら、いつも思うことがある。
それは「この肉体を預かった我」という、もう一つの主体が存在しているのではないか、という感覚である。
そう考えると、日常の中で人は常にさまざまな選択肢に巡り合っていることに気づく。しかし、どの道を選ぶかという主体そのものは、どこか漠然とした存在でもある。
人生には、いわゆる大きな岐路だけではなく、無数の細かな分岐点が常に存在している。多くの場合、人はそれらを無意識のうちに選びながら生きている。
だが、その選択をあらためて分析してみると、そこにはさらに無限とも言える選択肢の広がりがあることに気づく。
それは、量子論で語られる確率分布のように、可能性が広がりを持って存在している世界に似ているようにも感じられるのである。
実存は本質に先立つ
人は自由であるがゆえに、常に選択を迫られている。
しかしその選択の主体である「我」は、実体として固定されたものではなく、選択の連続の中で形作られていく存在である、というある三次元を超える範囲を持った存在ではないかと漠然と感じるのである。
2026/4/9 atローソンにて記す
【追記】現代における学問体系をリサーチしてみた。その全体像を見渡すと、まるで深い知の海を彷徨うことになりそうな気もする。その全体像は省くことにする。それは私の目的は学問を極めることではないし、今からとても追いきれない。有名な哲学者であったとしても、他人の考えに縛られる必要もないのである。
たとえ狭い範囲であっても、自らの体験と照らし合わせてみれば、そこから思いがけない発見が生まれることがある。
