人生は山を登り、そして下る
人の一生は千差万別である。
だが、どれほど異なる道を歩もうとも、命が尽きるという一点において、すべての生は平等だ。
かつてならとうに寿命を迎えていたであろう年齢に達し、それでもなお続くこの歩みに、私はいま、静かに思いを巡らせている。
それは、かつて胸を張って登った道とは違う、緩やかに、しかし確実に傾斜を増してゆく「下り坂」である。
人生には上り坂と下り坂がある。
年齢をX軸、元気度をY軸とするなら、私たちの命は一つの曲線を描く。
それは単調な弧ではない。体力、知力、感受性、情熱──それぞれの要素が異なるリズムで高まり、沈み、無数の小さな山と谷を連ねながら、やがて一つの頂点を経て、静かに傾いてゆく。
潜在的な力──発揮されたものではなく、発揮し得たかもしれない力──を思えば、そこにはその人なりの山容が浮かび上がる。努力、姿勢、選び取った環境。
それらが、知らず知らずのうちに山を築き、道をかたちづくってきたのだ。
人生とは、そうした幾重もの山と谷とを重ねながら、やがてひとつの大きな山を築き上げる営みなのだろう。
そしてその頂を越えたなら、私たちは緩やかに、あるいはときに転げるようにして、下り坂を歩む。
上り坂に咲き、下り坂に熟す
上り坂にいる間、人は成長の歓びに満たされる。
鍛えれば伸び、努力はたしかに実を結ぶ。無理を重ねてもなお回復し、自らの変化を手応えとして受け止めることができる。若さとは、そういう祝福の季節である。
だが、必ず下り坂は訪れる。
問題は、それに気づくことの難しさだ。
自信に満ちた者は、他者の忠告にも耳を貸さない。かつての自分がそうであったように。
あるとき、ふと気づく。
頭では駆けるつもりなのに、足がもつれる。転んで、初めて、自分が思い描いていた若き日の姿とは違うことを知る。
その瞬間の寂しさと戸惑いを、誰もが一度は味わうのだろう。
しかし、下り坂は恥ではない。
それは、与えられた力を使い尽くし、季節が変わったというだけのことだ。
上り坂には鍛錬を、下り坂には受容を──。
そのいずれもが、人生を豊かにする。
そして最後には、私たちは静かに山を下り、誰にも見えぬ頂を背負って、人生を終えるのだ。
【メモ】今朝5時過ぎに起き、朝食を済ませてウォーキングに出かけた。素晴らしい晴天に恵まれた爽やかな初夏の香りのする新緑の道なのだが、目が覚めきっていない。そのせいか、目が霞んでいる感じがして、心地よさが損なわれている。それでも、やゝ無理をしながら坂を上りきり、いつものセブンイレブンに到着し、コーヒーを飲み、歩きながら思いついたテーマで本稿を記した。
しかし、目の霞はメガネを外して目をぐるりと回すと、明らかに視界の周辺が白く濁っている。この歳の方々のほとんどは白内障になるらしいが、私もその傾向がはっきりしてきた。それでも、コーヒーを飲み、本稿を仕上げ終えると視界が少しスッキリしてきた。医師の判断でもそうだったが、まだ手術するほどではない、大丈夫そうである。ただ、体調によって白内障の現れ方に差があることを今日初めて知った。
250429-8:20 セブンイレブンイートインにて記す