こども時代 太平洋戦争体験者の談話録

[99]20241114

序文

小生(管理人)は、2024年6月27日に某中学校で、昭和初期の貴重な戦時体験談を伺う機会に恵まれました。
このお話は中学生を対象に同席して伺ったものですが、なんとか後世に伝え残せないかと思い立ち、ご本人から許諾をいただきましたので、ここに公開いたします。FMさん、ありがとうございました。きっと、この体験談は未来を生きる若者たちの心に深く刻まれたことと思います。
人生100年時代、これまでのご苦労の分も、これからの人生を健やかにお過ごしいただければ幸甚です。

(まんだら)

こども時代の太平洋戦争体験 F.Mさん談話録

私は1935年9月25生れ、現在88歳です。もう少しで89歳、あと一年で90歳になります。いつの間にか意識しないうちにこんな歳になり、驚いています。

1941年12月8日に太平洋戦争が始まりました。

 翌年4月、国民小学校1年生に入学するまでの5ヶ月間、いつか記憶にありませんが、父が外国航路の船員(機関士)でしたので出征することになりました。

しばらくして佐世保鎮守府*1の海軍病院より初めて父から手紙がとどきました。

手紙の中味は全部真っ黒に塗潰されていてどんな状況なのかわからず母はとても心配していました。

1945年3月10日には東京大空襲がありました。私は江戸川区小松川に住んでいたので火の手に追われ、荒川の土手に掘った穴の中へ逃げ込み助かりました。その年の夏に千葉(北小金と柏の間)に疎開しました。

1945年8月12日、近所のお姉さんから「いま、駅で貴女のことを聞かれ、探している人がいるから早く、早く、駅に行った方がいいよ」と背中を押され、駅までは子供(私)の足で約1時間はかかりました。

夢中で道をかけて、いくつもの坂を上り、下りたところの片側の日陰から「ふみこ」 と名前を呼ばれました。

見ると 松葉杖をつき、あちこち破れ汚れ、見るからに哀れな姿をした人が私を呼んでいます。

「 ふみこか?ふみこだね」

私は 父親だとすぐ分かりました。

片足のないあまりに変わり果てた姿と懐かしさに、どうしてか涙だけが後から後からあふれ出て声も出ません。

「 泣くなっ」

と一声言われ、無言のままゆっくりゆっくり一緒に家に帰りました。 

原爆の次の日に、父は佐世保から広島を通り途中下車をして街の中を歩き、関東大震災とはあまりに違った焼け野原に非常に驚いたという話をしていました。

やがて、1945年8月15日に終戦となりました。

父の仕事は無くて、だいぶ経てから近所の工場のご好意で家の中でできる仕事を引き受けることになり、当時は復興一色の時代でしたので、輸出で猛烈に忙しくなると父母二人では仕事が間に合わなくなり、私は学校を休んで手伝いました。

私が学校を休むことを父は反対で、時には寝ないで納期を間に合わせていました。

中学3年になると高校進学組と就職組に分けられ就職組は自習でした。

私は勉強したくて夜学でいいから高校進学をしたかったけど昼働いて夜学校は無理と母は許してくれません。

お情けで卒業証書は頂きました。
これを 中身のない形式卒業者*2というのだそうです。

 いつの間にか自分の中で歳をとって学ぶことは卒業とばかり決めこんでいたところがありましたが、「通信制中学」の募集を知ってスイッチが入り、歳をとっていても学習できるところがあると知り嬉しかったです。

まず健康でなければなりません。学ぶ、考える 覚えるばかりでなく、いろいろな点で気を配り気持ちに張りを持てて、良いものです。

質疑応答

OTさん

戦争当時どのような食事をとられていたか教えていただけると幸いです

回答

物資が少なくなって配給制になり十分精米されない5分づきから2分づきの黒いお米が配給されるようになりました。一升ビンに黒いお米を入れ棒でつついて精白するのがどこの家でも毎日の仕事、子供も手伝わされました。その他お米の中に豆かす、(動物の飼料だと大人の人の話)コウリャンが入ったり、お米がなくなると、さつまいも、じゃがいも、かぼちゃが主食、さつまいもは今の時代のようなものでなく色は白に近く水ぽい(ホクホクしてなくて)甘みもない毎食おいもばかりで流石、飽きて、親の留守の時に近所のお姉さん達と小麦粉の代りに「ぬか」でお好み焼を作って、お腹が空いていてもまずくて食べられませんでした。食べ物に好き嫌いはない筈ですが、今でもさつまいもは匂いを嗅いだだけで食べられません。


SGさん

戦争に関係ないような国が口を挟んだり参戦したり武器を売って金儲けするのがわからないです。日本だって最近アメリカから武器を買ったとか何とか。このことについてどう思いますか

回答

私が考えるにはひと口で言えば日本がアメリカに「負けたから」だと思います。

何年たっても戦争に負けると弱い立場になるのでしょうか? 悔しいです。.


HRさん

世界が平和になるためには何が必要だと思いますか?

回答

思やりの心(情)。情がなくなっている。

昔から比べて日本でもだんだん失なってるように思います。


KYさん

どんな思いで空襲から逃げていたのですか?

回答

1945年3月10日の夜中、雨・あられと言う言葉があるけど低空飛行で焼夷弾*3が落ちる中、電柱のトランスが落ちるのを避け、炎に追われ、母親の手にしっかり握られ引きずられるように一目散に荒川の土手へと駆けました。あの夜は強風でとても寒い日でした。オーバーコートを着ていた筈が、火の勢いがひどくて暑くてどこに脱きすてたか分からない ほどでした。

土手の穴の中から焼夷弾が強風にあおられて沢山川の中に光りながら落ちて行く様子はとても怖かったです。風がなかったら土手に落ちていたかもしれません。

翌朝下火になって両国方面から網につかまりながら血だらけの人達が橋の上をソロリソロリ歩いて行く様子に、もしかしたら私達も…みんな見るだけで無言でした。

町全体が何もない熱い我家の焼跡に行っても何もありません。子供心に、今日これからどこに行くの?

不思議に駅近くに焼け残った家があって、近所の人の好意で泊まらせてもらい、6畳の部屋に11人。頭を並べて寝られなくて2列になって、頭の隣りは「足」と交互に、母の足につかまりながら前日一睡もしなかったせいか眠った覚えがあります。


TDさん

私は、実際に戦争を経験した方を直接見てお話を聞いたのは初めてで、新鮮な気持ちになりました。教科書に載っている戦争の話とは違う視点で戦争を見ることができました。お話の中で、どうしてお父さんからのお手紙が黒く塗り潰されていたのか気になりました。

回答

黒塗りの手紙は、どんな内容だったか父は話さず、軍に逆らう様なことを書く人ではなかった筈。

出征する前、母が若い人が兵隊に行くのが当り前の時で近所や親戚のおじさんは父より若い人達が戦争にとられないのに50歳近い父が何故戦地に行かなくてはならないのか…とケンカ?状態で話していた時、そんな事を世間に知られたら「こくぞく」だと説き伏せていて「コクゾク」って何?とたずねると『言ってはいけない』と日頃優しい無口な父に叱られた記憶が残っています。後年、漢字を知って「国賊」と知りました。

どんな内容でも軍関係の手紙は黒塗り だったのか???

戦後、入院していた父は傷口の痛む治療だったので、私は心配で毎日の様に手紙を書き、家に届く手紙は母の手紙の中に同封しました。当時は進駐軍による封筒の下の部分を開封した後があり、上等な部厚いセロテープで閉じられてました。


管理人

手紙の中身がなぜ真っ黒だったのですか?

(同じ質問がありましたが削除しないでおきます)

回答

真っ黒に塗りつぶやされた内容は私は聞いてないです。父のことだから私たちに心配かけまいとした内容だったと思うのですが何故真っ黒だったんでしょう。3月10日の大空襲で焼けてしまい何も残ってないです。

戦後駐留軍によって手紙の検閲で下の部分を開封して当時は珍しいセロテープで封をしてありました。父は戦後、途中治療だった傷口が痛むので、私が入院していた父宛てに毎日のように手紙を書きました。父からの返事は大抵封書、母宛ての中に私の分も。封筒の下は開封されテープが貼ってありました。

小学校2年生の時、慰問袋を戦地に送る事があって、家族が出征している人は送り先の隊の名前を学校に提出することがあって、父宛の慰問袋も作っていただいて、私も手紙と絵を書いたのです。(頭の何処かに病院からの手紙であったからか?)どう言うわけか白衣の兵隊が松葉杖をついてる姿の絵を書いたのですね、慰問袋を受け取って開いた時は震えが止まらなかった!と父に言われました。黒塗りの手紙には足のことは書いて無かったことになりますね。

 

【注記】
*1 佐世保鎮守府(させぼちんじゅふ)は、長崎県佐世保市に所在した大日本帝国海軍の鎮守府。通称は佐鎮(さちん)

*2 形式卒業者 この時代、戦争の動乱期で学業どころではなく形式卒業者があふれていたのですね。

*3 焼夷弾 焼夷弾(しょういだん)とは、発火性の物質を含み、着弾後に火災を引き起こすことを目的とした兵器です。通常、ナパームや白燐(はくりん)などの燃焼物質が使用され、対象地域を焼き払うために用いられます。焼夷弾は、第二次世界大戦中に広範に使用され、都市部への攻撃において大きな被害をもたらしました。特に、日本の東京大空襲やドイツのドレスデン空襲などが有名です。

VR 1.0 2024年7月4日 記録

2024年8月20日 一部訂正