序文
私は今年満79歳を迎える。75歳でとりあえず現役を引退する機会を得て、多少振り返りる時間ができた。まずは、自分の父母、祖父母が生きてきた時代、現近代について実話に基づき解き明かしていきたいとおもう。
今回は、私の先輩である武道家でもある杉本久さんが、生きた満州時代の歴史を残したいと願う友人・知人の同意を得て時代の経験をまとめることになった。そこで、私のブログの趣旨に叶うと思い、私のブログで著作物の公開をお願いしたところ、快く許諾してくれた。これからしばらく生き証人を得て満州時代の生き証人の記録を残します。2024/2/8
初回 ‖ 満州国とは 著者 杉本久
満洲国は1931年(昭和6年)に、旧日本軍の関東軍が瀋陽郊外で南満洲鉄道線を爆破*して始まった「満洲事変」に始まり日本軍が占領した満洲、内蒙古、熱河省を領土として翌年1932年に成立した国家である。
首都は新京で、日本民族・満洲民族・漢民族・モンゴル民族・朝鮮民族の五つの民族(五族協和と言う)だが、実際は日本による傀儡国家である「王道楽土」建設をスローガンとし、清朝の廃帝となった「愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)を執政に迎え、1934年(昭和9年)から溥儀を皇帝とした帝政へ移行し、各大臣は満洲族で占められたが、要職は関東軍司令官のもとに日本人が掌握していた国家である。
昭和時代の初期、日本国内の農村恐慌の惨状は現代では、想像できないほどの惨憺たるものであった。その解決策として「満蒙開拓団」として、約27万人が日本人移民として満洲に送り込まれた。その満洲には広大な未墾の大地はあったが、「匪賊(ひぞく)」という集団が略奪や暴行などを行う賊徒がいて、治安が悪かったが、昭和7年に日本国内から軍歴優秀な青年が選抜され卓越な指導者に率いられて渡満してきた。それにより移民たちの安全性が増し、翌年には未墾の大地に入植の最初の鍬を入れることか出来た。更にその翌年には日本国内から、満州で活躍している開拓団員への花嫁候補者が、次々と渡満してきた。国内の不景気のどん底にあって苦労するより、広い広い満洲に行って暮らした方が幸せを得られると思ったからだ。
令和の現代では考えられないが、当時の家庭の父親たちの娘に対する思いは「女は学校を卒業したら花嫁修業に励み、良縁を探してお嫁に行くことが女の務めだ」という風潮が多かった。増してこんな不景気のどん底にあって、日本の狭い所にいて苦労するより、広い満洲に行ってのんびり暮らした方がよいという考えが広がってきていたのである。そして未開の大地ではあるが、満州は日本内地の惨状からみれば、農民にとって希望の光となり、既に渡満で働いている若き男性の元への花嫁候補者が増えていったのである。
満洲国内では渡満した日本人と、使用人としての満州人とが仲良く協力し合って、希望通りの生活がしばらく続いていたが、やがて昭和20年8月に日本が敗戦となり、満洲開拓団は荷物を纏め、幼い子供たちを抱えて日本への帰国となったが、途中、飢えや寒さで大人たちや、弱い子供たちが何人も亡くなり、途中駅の線路脇に泣きながら穴を掘って埋めたり、幼子の亡骸は鉄橋を渡るたびに貨車から下の川の流れに投下して水葬にした。更に、駅に停車するたびにロシヤ兵や満州人暴徒に、貴重品などを奪われ、恐ろしい思いをしながら、やっと生まれ故郷の祖国日本に帰りついた事実があったのだ。
これらの実体験をした人たちは、引き揚げ者たちが、この恐ろしかった体験談を、平成11年になって「満洲弥栄村(やえさかむら)引揚者が語り継ぐ労苦体験」として、一冊の本にまとめた(全436ページ)のである。現在もロシアとウクライナの戦争が続いていて、悲惨なニュースが毎日伝わっているが、私たちの次を担う子供たちや孫たちの時代に、戦争の恐ろしさを伝え、この地球で暮らす人類や自然界の動物・植物たちが平和で暮らせるように心から願いたいものである。続く。
コメント
* 柳条湖事件
1931年に起きた満州事変のきっかけとなった南満州鉄道の線路爆破事件を柳条湖事件という。