1.満州開拓への道 ‖ 現近代史実話

a close up of a wave on a beach

1,満洲開拓への道

昭和の初期は米国をはじめ諸外国より経済封鎖に遭い、日本は不況のどん底で低迷していた。軍備においても縮小時代で、現役兵として服務する者も数少なかった。

昭和6年9月、満州奉天、柳条湖の満鉄線路の爆発を契機に「満州事変」が始まり、日本の関東軍によって半年足らずの間に満洲の大半を威圧して、新政府「満州国」を設立し、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)が執政に就任し、年号を大同元,年(後に康徳)として発足した。

 一方、日本国内の経済情勢はアメリカをはじめ各国の経済封鎖を受け、景気は極めて悪く、農村における男子次男、三男対策に苦慮していた。折から関東軍や先覚者、学者が相計り、武装移民の送出により満洲の治安維持と農産物をはじめ、膨大な資源確保の遠大な計画が策定された。

軍部や政府にも幾多の曲折はあったが、時の政府に採択され、昭和7年8月、北海道、宮城県、山形県、福島県、茨城県、栃木県、群馬県、長野県、千葉県、新潟県、三重県、福岡県などからのうち11県から、第一次の武装移民・一個大隊500人を決定したのである。

 募集要項はおおむね次のような内容であった。

1.       軍隊からの既に教育兵であること。

2.       30歳未満にして志操堅固、困苦欠乏に耐え、在隊成績良好なるもの。

3.       三年間は仕送りを必要としないもの。

4.       理想郷の建設に邁進し、北満州に骨を埋める各個不動の精神を持つ者。・・などであった。

次に募集は各県の連帯区司令部がこれに当たり、町村長の推薦書、履歴書、口頭試問、身体検査など、中々厳しい選考であった。そして対象者は家族や親戚などと相談し、この厳しい基準を覚悟して日本内地でそれぞれが学校などを利用して短期訓練が行なわれたり、それが終了すると渡満準備のため郷里への挨拶、村からの壮行会、荷物莉整理などの多忙を極めて、昭和7年10月各地の港から満洲に渡ったのである。(続く) ‖ 著者 杉本久 (原文のまま)