3&4 満州開拓への道 ‖ 現近代史実話

3.匪賊からの襲撃

 本部は永豊鎮という場所の中心地に独立した土壁をめぐらした中に、三棟の建物がある既設のものを充当していた。この建物は元匪賊の本拠地で、関東軍の支持により満洲国軍が開放して開拓団に提供してくれていたものであった。五族協和を旗印に満鮮人の出入りは自由に行われ、夜間の警備体制も手薄であった。密偵による匪賊の情報収集も行っていたが、確報をつかむことはなかなか難しいことであった。

 

 昭和9年2月のある日、殊のほか寒さが厳しく(零下20数度以下)静かな晩であった。

夜中の一時頃、宿舎の外で急に怒号が聞こえ、空から爆音と同時に小銃弾が連続飛び込んできた。

一同飛び起き、直ちに反撃したが、焦るばかりで外からの救援隊を待つほかなく必死の応戦を続けた。

抗戦すること約4~50分経ったころ、宿舎の東端より火の手が上がり焼き討ちを計られたのである。

その頃、救援隊が到着し、外からの猛攻を加えたので、土塀内に侵入していた百数十人の匪賊は死体二体を残してやっと退散した。

 

夜明け後、宿舎内の壁や天井・ペチカは弾痕で蜂の巣のように穴が空いており、よくもこの中で負傷もせずに済んだものとお互いに抱き合って無事を喜んだ。本部を襲撃した匪賊は、彼らの元の本拠を奪い返そうとした意図であったか、彼らは小銃のほか短い槍の先端に紅い「フサ」を付け、呪文を唱えつつ銃弾などものともせず立ち向かうという狂信的な集団で、精鋭な日本軍も手を焼いていたのである。


4.満洲への花嫁部隊

昭和8年4月からの本隊が現地へ入植した後、各小隊(部落)とも、まずは長屋式の共同住宅の建設と農耕に、又、一方匪賊に備えての警備・盗伐に一丸となって努力を続け、幸いにして農作物(玉蜀黍、粟、大麦、小麦など)をはじめ、越冬野菜も予想以上の収穫をあげ、新しい共同住宅で越冬できるようになった。

そして昭和9年、待望の個人住宅の建設に重点をおき、既婚者の家族を招致することに決定した。それにより婦人や子供の居なかった殺風景な開拓地も一段と和やかになり、建設作業も農作業も大きな成果を上げたのである。

昭和11年には、現地の未婚者全員への花嫁募集が計画され、日本の各県から来ている部落の代表者たちと共に出発し、それぞれの出身県に帰り、嫁探し、結婚、渡満準備をすることに決定した。日本への到着後はあらかじめ連絡しておいたスケジュールにより県内団員の家を巡回し、嫁さんの決定・仮祝言・披露宴・渡満準備などの連絡を行うほか、出身農学校、小学校その他の集まりで満洲事情についての講演会や座談会を行い忙しい毎日を過ごした。

 そして応募された各県からの花嫁の到着を待ち、その付添人も多く大変な混雑であったが遅刻者もなく集まり簡単な壮行会をして、付き添いの方々と切ないお別れをして、満州の地へ向かったのである。

満州の港で出迎えた者たちは、旧知の者もあれば、写真結婚で初めて会う者もあり、悲喜こもごもの初対面も済みそれぞれの部落へ無事に到着をした。迎え入れた部落では集団結婚式が行われ、千代の契りを結び、花嫁一同も部落民となり後に大活躍をすることになったのである。

 

当時の社会教育や世相からして、よくも若い嫁さんたちが、未知の満洲、しかも結婚の相手に会ったこともなく、写真結婚をした者も多くいたものだと、その意気込みには感心したものである。

(続く)著者 杉本久 (原文のまま)