6. 平和から苦難の道へ
広い広い大陸、満洲の地平線に大きく真っ赤な太陽が沈む眺めは、ほんとうに美しいもので、「ここはお国の何百里、離れて遠き満洲の、赤い夕陽に照らされて・・」という軍歌は、令和時代の現在の高齢者の人たちは一度や二度は聴いたことがあると思う。そして赤い夕陽が地平線のかなたに沈むと夜の帳(とばり)がおり、ランプの明かりが家々の窓からぼんやり揺らぐのを見ていると、急に遠く離れた日本の故郷が思い出されて、涙がとめどもなく流れてくることも多くあった。
昭和18~19年頃になると、内地からは満洲開拓の実態を知るための視察団が、次々と各開拓団に訪れてきて、「満州人と一緒になって働いてみたい」と言われ、自ら希望して野良着姿になり、農作業を実習される日本人が増えてきた。
国策遂行の意欲に燃えた新しい開拓団や入植者が、続々と入ってきた。それらの人々に対して必要な技術や生活方法を訓練して近隣各地の開拓団に送り出し、やりがいのある充実した毎日だった。本当に満洲に来てよかったと心も体も伸び伸びとする毎日だった。それは一、二年後に襲ってくるあの悪夢のような生活など、誰も想像することのできない、のどかな天地だった。
昭和20年8月9日に、思いもよらずに日本とソ連が結んでいた「日ソ不可侵条約」を、ソ連軍がその条約を一方的に破棄して、北満国境から戦車を先頭にして、怒涛のごとき勢いで進入してきた。そのため各村に残っていた50歳以下の男性はすべて動員され、残った男性は60歳になった国民学校の先生一人だけだった。
これから残った者はどうしたらいいのか何も良い知恵は浮かんでこない。11日の真夜中に開拓本部から至急電話が入り「明12日早朝6時に全員、弥栄駅に集合、各人一週間分の食糧を持つこと」とのことだった。
いよいよ恐れていたことが現実になってしまった。身の回りの整理もそこそこに重いリュックを背負った。中身は食糧ばかりでした。10歳の男の子を頭に四人の女の子、それに私自身が妊娠五カ月の身重で不安で頭が狂いそうでした。夜明けを待って小作人として永く使っていた満人を起こし、一週間ばかり留守にするからと馬車を仕立てさせました。そして隣近所に声をかけ合って家を出ました。
十有余年、第二の我が家として住み慣れた家と、手塩にかけて愛育した大小の家畜に涙して別れました。
永く一緒に働いていた小作人家族とも手を取り合って別れを惜しみ「後を頼みます」と言って鍵を渡しました。弥栄駅には、あちらこちらから荷物を一杯に持った避難家族が集まってきました。女、子供の泣き叫ぶ声、怒鳴り合う声・・で騒音のるつぼで、避難列車の来るのを一日待っていました。
墳墓の地と定めていたこの弥栄、千万無量の思いを残して赤い太陽が西の地平線に沈むころ、ようやく無蓋列車が到着して、私達を乗せてくれました。(続く)
著者 杉本久