8. [最終回]懐かしの故郷へ
昭和16年12月8日に始まった「第二次世界大戦」は、20年8月15日に日本は、米国による広島、長崎への原子爆弾の投下により敗戦国になった。ところが遠く満洲にいる開拓団にはすぐに敗戦の情報は伝わってこなかった。
8月12日の未明、ドアを叩く音に目が覚めた。小窓から顔を出すと、近くに住んでいる満人が一枚の紙を手に渡してきた紙を見て気が動転してしまった。明日はこの辺一帯が戦場と化すから三日分の食糧を持って、正午までに駅に集合との知らせであった。弥栄村の男性は全員集合され、残った男性は病人と老人で、あとは女子と子供だけであった。
もう驚いている暇はない。残っていれば殺されると思い、親しい満人に「お前に全財産を上げるから、できるだけの現金が欲しい」と頼んだら走り回ってかき集めてくれた。二度と戻らないかもしれない私たちなのに涙の出る程うれしかった。満人は大勢集まってきたが何も手出しはせず、むしろ別れを惜しんでいる様子だった。昭和7年の入植以来、苦楽を共にした満人である。
駅から乗車できた人が川を渡り終えた時、轟音と共に鉄橋が爆破され、乗れた人たちが最終の避難者となったが、乗れなかった人たちは徒歩で延々と歩き通し、幼い子供は満人に預け、多くの犠牲者を出し残留孤児となった。乗った無蓋車は夜になって雨が大降りになり、屋根も雨具もないので全員ずぶ濡れで、あちこちで子供が死んだという泣き叫ぶ声、生き地獄そのものだった。その時幼児の大半は亡くなり、亡くなった子は鉄橋を渡る時、涙と共に水葬するよりほかに方法は無かった。あの悲惨さは地獄そのものであった。
屋根のない無蓋車で南に向かっている時、時々、駅でもない所に停車すると、日本の敗戦を知った満人が、あっという間に貨車を囲み、揺さぶり動かし転覆させようとしたり、窓から小石を窓から投げ込んだり、水を掛けたりする。
なんとか途中で野宿したりしながら、今度は屋根のある列車に乗り換え、大喜びしたところ、突然ロシア兵が乗り込んできて、現金、時計、靴までも略奪されてもなされるままだった。この程度で済んだことは運がよかったとさえ思い、やっと大連に着いたが、この間の毎日が生き地獄のような避難行だった。
著者 杉本久
[あとがき]次回、満州から引き上げてきた方の感想を「あとがき」とし、完了となります。