5 開拓花嫁になるまでの一例
長野県の寒村で代々農業をしていた、ある女性の経験の一例である。
彼女は両親の次女として、その慈愛の元に何一つ不自由なく育ち、地元の学校を卒業して、家事手伝いをしながら花嫁修業に精を出していた。元々世話好きな性格だったので、女子青年団に入っていて副団長に選ばれて、張り切って毎日を楽しく過ごしていた。
その頃は、昭和大恐慌*の最中で、そのうえに東北地方から北陸地方の一帯に冷害が続き、大変な時代であった。特に農村は、今日食べるものがないといった悲惨な生活をしているところもあり、貧乏のどん底にある時代でした。
昭和7年に満州国が建国され、その理想として「五属協和」「王道楽土の建設」というスローガンが掲げられた。この疲弊した農村の窮状を救うには、満洲開拓をするほかに途は無いということで、満洲開拓が国策として奨励されるようになり、満洲移民は「鍬の戦士」ともてはやされて、鉦や太鼓で送り出されるような時代であった。
そして満洲移民が実行に移され、内地での農村生活に見切りをつけて、家財を投げ捨てて参加する人が段々と多くなってきて、その人たちは肥沃な新天地に夢と希望に燃えて進出していったものである。
五族協和 (満洲国)とは? 満洲国の民族政策の標語で、日本が満洲国を建国した時の理念。五族は日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人を指す。
若い農村男性が開拓移民として満洲に出て行って、一生懸命に働くようになると独り身ではいろいろと日常生活でも大変だから、世帯を持たなければならない。家族で腰を落ち着けて開拓に精進させることが大切だという事になり、今度は開拓の花嫁が必要になってきました。
私の村のひとりの息子さんも開拓移民として満洲に入植しまして、今でいう結婚相談員のようなこともしていて、満洲の良い所を色々話されて、花嫁候補を探しておられました。あまり上手に話されるので、ついつい釣り込まれてしまうようになりました。そのうちに、縁があって主人となる男性の結婚話が持ち上がり、文通を始めるようになりました。その時はまだ本人とは会ったことはなく、ただ写真だけの見合いで文通し、お互いを知り合うようになったのです。(続く)
著者 杉本久 (原文のまま掲載)
[参考 昭和大恐慌]
昭和大恐慌は、日本で1930年代初頭に起こった経済危機で、1920年代に始まった世界恐慌の影響を受け、日本の経済も深刻な不況に見舞われました。
これにより、失業率の上昇や企業倒産などの問題が発生し、政府は対策を講じるために様々な政策を導入しました。また、この時期には農村部でも農業不況が深刻化し、農民の生活に大きな影響を与えました。