7. 苦難の避難行
苦難の一頁が始まった。12日の夜から又、雨が降り出した。雨、雨、また雨、無蓋車(むがいしゃ)の中はすし詰め状態、雨水を避けることもならず体はもとよりの事。リュックサックの中までずぶ濡れとなり、子供の泣き叫ぶ声、大人たちの怒鳴り声などが入り交わって気が変になりそうでしたし、老人の中には本当に気が変になった人も出てきました。やっとのことで佳木斮駅に着いたら「これから先は橋が落ちるから七歳以下の子供は載せられない」と言われ、そこで又ひと騒動があり、持ってきた荷物をほとんど満人機関士に渡し、やっと子供たちと一緒に行くことを許された。
私たちが、日本から夢と希望をもって第一歩を印したこの地は、真っ赤な火柱が、あちこちで立ちのぼる無残な姿の街と化し、関東軍も警察もその機能を失って、何もしてもらえない有様だった。それから列車は更に南下して四日間も無蓋車の中で過ごしたが、雨と寒さの中で子供たちは泣き叫んでいた。
四日後に到着駅にして飛行場に集められが、あちらこちらからの避難民が約3万人くらい、格納庫のコンクリートの床の上に草を敷き、母子抱き合って仮寝の夢を結びました。北満の九月近くはもう夜は寒い。
格納庫での生活が続くうちに、悪性の麻疹が流行し始め、特に四歳以下の幼児は殆どかかり、医者に診てもらうこともできずに、ただ苦しむのをさすってやるだけだった。「お餅を食べたい!」と言ったので、朝鮮人が売りに来た餅を買って食べさせると、うれしそうに親の顔を見つめながら二切れ食べたが、これがこの子の最後の食事となった。毎日、朝になると亡くなった子供たちを埋葬する土饅頭が増えてくる。
やがて待望の南下が始まったが、周囲では幼児が次々と息を絶やし、次の駅で、爪と髪の毛を残して廃坑の穴に埋めたが、そこには多くの幼児が同じように埋められていた。列車が駅に止まるたびに、決まって満人が襲ってきて略奪暴行をする。それにソ連兵も加わって時計や眼鏡などまで略奪してゆく有様で、底知れぬ恐怖の避難行での一つの希望は、早く大連に着くことだった。
約10日間かかって、やっと大連に着いた。そこに希望を持っていた大連だが、寒さと飢えと、病が待っていたのだ。元、そこにあった学校が収容所になり、一教室に3~40人が収容されたが、着たきり雀で、虱と垢と栄養失調の体で、目ばかりギョロギョロしていて、まるで幽霊のような姿であった。
こんな悲惨な貧しく苦しいなりの毎日を過ごしていたが、それなりに少しずつ落ち着いてきて治安もよくなってきた。やがて集団生活から個々の家庭ごとに生活するようになり、それぞれの家の生活は千差万別となり、互いに励まし、励まされながら一年二か月が過ぎた。(続く)
著者 杉本久