2023/8 起草
沖縄の旧海軍司令部 壕 で2月、古びた万年筆が見つかった。持ち主はあの夏、激戦の地で命を落とした日本兵。
いくつもの偶然が重なり、万年筆は78年を経て、まな娘の手へと渡った。15日の終戦の日、娘は父の形見とともに改めて平和を願う。
🔺万年筆を手に父との思い出を語る坂下さん(7月中旬、東京都町田市で)
「優しくて、子煩悩だった父を戦争に奪われた。一度でいいから、また会いたかった」。東京都町田市の坂下満子さん(85)は、涙を浮かべながら語った。
千葉県出身の父は、北海道釧路市の陸軍省軍馬補充部で、馬の世話をする仕事をしていた。長女の自分や妹には甘かった。怒られたことは一度もない。1943年9月、満州(現中国東北部)に出征する時には、抱き上げられて何度もほおずりされた。
楽しみにしていたのは、筆まめな父から送られてくる手紙。現地の様子や娘たちの成長を願う心境がつづられていた
「母の言うことを聞くように」。毎回、同じ一文で締めくくられていた便りは、万年筆でしたためられていた。
届くのが待ち遠しくて、1日に何度も郵便受けをのぞいた。ところが45年、週に何度も届いていた父からの連絡が途絶えた。最後の一通には、自身の髪の毛と爪が同封され、沖縄に行くことが書かれていた。
45年3月に始まった沖縄戦で、日本軍は本土決戦への時間稼ぎのため、10万人超を投入。米軍の攻撃や追い詰められた末の自決により、民間人を含む18万人余が亡くなった。終戦を迎えても、父は帰ってこなかった。
沖縄戦の帰還者が父について、「片足を失った姿を見た」と言っていたと聞いた。「爆弾に当たったのか。父ちゃんはどんなに怖かったか」帰還者の情報を伝えるラジオに聞き入り、父の名前が読み上げられるのを待った。
そんな日々を送っていた翌年6月、32歳になる父が沖縄で戦死したとの知らせが届く。まだ8歳。もう会えないことが信じられず、泣きじゃくった。野良仕事で日銭を稼ぎ、子育てに奔走した母は3年後、結核で亡くなった。腹をすかせた娘に米とジャガイモを食べさせ、自分は馬の餌「エン麦」を口にする子ども思いの母だった。
叔父の家に引き取られた坂下さんは21歳で結婚し、2人の娘を育てた。4人の孫には「たくさんの人を悲しませる戦争は、絶対にダメ」と言い続けてきた。
見つかった万年筆🔻
今年2月、沖縄県 豊見城 市(とみぐすく)那覇市にまたがる旧海軍司令部壕。NPO法人「空援隊」(京都)のボランティアが、遺骨収集作業中に1本の万年筆を見つけた。黒色の本体には「宮本」と彫られていた。
本文 杉本久