日記241114(木)晴


継続部

詩歌・俳句・川柳・短歌

詩歌・俳句・川柳・短歌

再掲編集 241030〜241115

ノリさんの投稿

★投稿日 本日

昼食は 即席汁粉に 餅を入れ

▶︎投稿日 241107

11月 秋雨でなく 線状帯

この天候 とまどい続く この私

酷暑日の 体にこたえる暑さ 今は亡き

通院も これなら許せる 秋の空

がん療法 私の髪も 秋模様

立冬にあっという間の 感深し

立冬にあやかって


大樹の葉 北風来ても 未だ落ちぬ

立冬に これだけ揺れても 葉落ちず

洗濯物 大樹の枝葉に 同期せり

灯油売り チャイム鳴らして 売り始め

‖ 再掲部 一部編集 ‖

▶︎投稿日 241030

10月も 下旬なのに 夏日くる

異常気象 トコトントコトン 異常気象

異常気象 人もケモノも タジタジだ

能登半島 千年に一度の 隆起あり

この隆起 光る君へと 連動す

選挙について
投票日 皆さん夜なべで 雨模様

この雨は 落ちる人には 気が重い

雨の中 通院するのも 煩わし

大樹から 葉一つ一つ 落ちにけり

二回の化学療法で、PSAが0.18まで下がりました。1.193まで上がったのですが、落ちてきました。お陰で髪の毛も落ちてきました。

▶︎小生はコロナ罹患時PSAが29ぐらいありましたが、コロナが治癒してから6ぐらいに下がり、そのまま放置です。担当医は、悪くなったら埼玉医大紹介するから、とか言ってます。

抗がん剤 頭髪は太陽の フレアの様

▶︎投稿日 241023

友のブログ 凄いパワーに 敬服す

鳥たちも 昼寝するのか 静かです

この葉達 全て落ちたら 鳥たちどうする

遠出して ご褒美にプリン 買いました

室温も 18度となり 秋来る

鳥たちも 秋の稔りを 満喫す

▶︎投稿日 241016

煩悩を 焼き尽す火が 立ち上がる

お護摩の日 稲刈り終えて 聖火あり

この薬 沢山の弊害 押し寄せる

点滴を 受けてご褒美 アップルパイ

註釈 点滴に2時間15分かかります。

観たいなあ 彗星西に 窓は無し

風に乗り 聞こゆる声は 運動会

ようやく凌ぎやすくなりましたね。
但し、お店は2週間、休みをもらいました。どうにも、腰が痛いので。

▶︎投稿241011(金)晴 241017まで掲載分

蒲焼を 貰って食べて バテをとる

小学生 AIの話をしている この凄さ

化学療法で減る白血球を増やすための注射で。【メモ】小生は白血球がいつも低位範囲外、赤血球はギリギリ範囲内です。


何とまぁ 時限注射器 腹につけ

カフェ開き 移ろいゆく日々 客足も

カフェ開き 悩み多いのは お客様

カフェ開き ただひたすら 悩むなり

客商売は、難しいです

秋雨が いよいよ寒さを 招きけり

室温が これからの寒さ 予感せり

化学療法で治療後、27時間経つとお腹に着けたボディポッドか、勝手に液を注入します。ジーラスタ皮下注射です。これもまた、凄い時代になりました。

川柳・俳句-mandara

▶︎241025

諸行無常 栄枯の果てに 消ゆる影
取引ありし 昔を想う
← 船井電機の破産手続き開始に想う

▶︎241023

清秋や 里山深く 闇落ちぬ

▶︎241020

神経痛 ミミズが走る あにこちに

老化とは 病の種を まく季節

4コマ漫画 by y.Mandara 241107

雑談:ネズミとノラ猫

new 俳句スタディ

とうきびを捥ぐや身ぬちにひびきける

身ぬち」とは、「身内(みうち)」が転じた表現で、体の内部や体の芯を意味する。この意味がわかると、ズシンと感じる。語彙力がないと俳句も鑑賞できないので取り上げた。[出典 毎日俳壇]

そのほか、知らない単語や言葉がたくさん見つかる。特に俳句や和歌の世界、漢文の世界、知らないことだらけである。今から勉強もないだろう、という声と戦っている自分がここにいる。

俳句からみつけたその他の新しい語句

零余子飯 ‖ むかごメシ。零余子とは、ヤマノイモ科の植物の葉の付け根にできる小さな球状の芽のこと。北海道や青森県で10〜11月の秋の味覚として知られる。皮ごと食べられ、ほっくりした味らしい。レシピ記事にたくさんある。

▼錦木

https://www.hana300.com/teiten/nisiki-t1.html

▶︎本ブログのモチーフ

このブログのモチーフ

本ブログのモチーフ再確認

本ブログは天に向かって書いている。

天には八百万の神々が住んでいる。

人は神の化身である。

天界におわす神々、現界におわす神々の化身、ここにたまに訪れる人々も化身である。

中には一瞥をくれる神もいる。

しかし、ウケ狙いを目論んではならない。最後まで自分軸であろう。

本文は、地上に霞のように生きていた証として意識のある限り残すものである。

悠久の時は、やがてこの記録が浜の真砂の一粒にも満たなくなる運命にあることを知っていることだろう。

老齢期に始めたこの日記の中には昔のことについて記したものがある。しかし、それらの記述は記憶の曖昧さが残る。

また、心の中にはすべてを語るには忍びない悲しい出来事や秘密もある。しかし、主たる神々はお見通しのはずである。悲しみや苦しみを神々が神の子に望んでいるはずはない。仮にあったとしても、それは未熟な神の子への試練のはずである。

今はひたすら自分自身が幸せを感じる生き方に固執している。そこには追われるように生きている自分がいる。

なんらかの形で秘密や苦難の記録も生きていた証として残そうと思いつつも、神の身許へお持ちすることになるかもしれない。

インターネットという情報公開には限度があることを(ボケの進み切れていない今ならまだ)認識できているからである。

📌や📍マークは、その時刻、タイミングでの事実の記録である。記憶の起点である。

たまに見返す時、何を一人前のことを書いているのかと呆れることもある。教養不足からくるものである。それも広く深い懐で神々がお許しになるはずである。

2024/12/12 記す

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