自由という重荷― サルトルの実存主義(第2回)

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サルトルを学ぼう [002]

自由とは何か ― サルトルの実存主義(第2回)


フランスの哲学者 ジャン=ポール・サルトル は、人間の本質を「自由」であると捉えました。


しかし、ここでいう自由とは、好き勝手に生きられるという意味ではありません。むしろその逆であり、「人間は選択せざるを得ない存在である」という厳しい前提を含んでいます。

人は、何をするかだけでなく、「何をしないか」も含めて、常に選び続けています。たとえ「何もしない」と決めたとしても、それ自体が一つの選択です。
つまり人間は、どのような状況にあっても、選択から逃れることはできません。

サルトルはこれを、「人間は自由の刑に処されている」とまで表現しました。
自由とは祝福ではなく、むしろ重荷であり、責任そのものなのです。

(この重荷を神に委ねたいという楽な道を幾度となく考えたことがあるーーしかし、考え追求することを許さない神がこころに存在している)

老年の視点からこの言葉(自由)を考えると、また違った意味が見えてきます。
若い頃は、選択肢が多すぎることが不安でした。しかし年を重ねると、今度は「選択肢が少なくなる」ことへの不安に変わります。

体力、時間、人間関係――確かに制約は増えていきます。
しかしそれでもなお、人は選び続けています。

たとえば、今日をどう過ごすか。誰と関わるか。何を考えるか。
それら一つひとつが、今の自分を形作っています。

[ポイント]
自由とは「何でもできること」ではありません。むしろ、「どんな状況でも選ばざるを得ないこと」です。

環境や運命によって制限されることはあっても、その中でどのように意味づけし、どう行動するかは、最後まで自分に委ねられています。

この視点に立つと、「自由がない」という感覚そのものが問い直されます。本当に自由がないのではなく、「選ぶことの重さ」から目をそらしているだけなのかもしれません。

老いとは、自由を失う過程ではありません。
むしろ「選択の本質」がむき出しになる過程です。

若い頃は可能性に覆われて見えなかった「本当の自由」が、老年においては、よりはっきりとした輪郭を持って現れてきます。

それは軽やかなものではなく、静かで、逃げ場のない自由です。しかし同時に、それは最後まで人間に残された、確かな力でもあります。

👉 老骨の一言:
「自由とは可能性の多さではあるが、それより、むしろ最後まで選び続ける責任のことである。」

改訂260420

思考を深める 実存主義と親子の問題

孤独と自由 ― 老いの中で見えてくる実存

人は時に孤独である。

しかし、老いてみると、その孤独は必ずしも不幸ではないと気づく。むしろ孤独とは、自分という存在に静かに向き合う時間でもある。

人生を振り返ると、親子の関係についても同じことが言える。子どもには子どもの人生があり、価値観の合う人を見つけて、それぞれの世界で生きてゆく。親と子の価値観が違うのは当然のことであり、むしろそれが自然なのである。

ここで思い出すのが、フランスの哲学者 ジャン=ポール・サルトル の実存主義である。サルトルは有名な言葉で「人間は自由の刑に処せられている」と語った。人は生まれながらに決まった本質を持っているのではなく、自らの選択によって自分の存在を形づくっていくというのである。

親子関係もまた、この実存の問題から逃れることはできない。

子どもがどれほど優れた能力や知恵を持っていたとしても、親の人生を決めることはできないし、また決めてはならない。親の人生は親の選択によって成り立つものであり、子の人生もまた子自身の選択によって築かれるものである。

もし互いの価値観を無理に押しつけ合えば、人は自分自身の自由を失い、「他人の人生」を生きることになる。それはサルトルの言う「自己欺瞞(バッド・フェイス)」に近い状態であろう。自分の自由から目を背け、他人の期待や役割の中に逃げ込む生き方である。

老いて思うのは、人生の主体は最後まで自分自身であるということである。親子であっても、それぞれが別の実存であり、別の人生を歩む存在なのである。

もし関係が窮屈になり、自分の生き方が押しつぶされそうになるならば、静かに距離を取ることもまた一つの選択である。それは逃避ではなく、自分の実存を守る行為なのである。

孤独を恐れる必要はない。また、最終選択には世間の常識を捨てても良いという選択肢が実存主義から導かれるのである。

孤独の中でこそ、人は初めて「自分の人生」を生き始めるのである。