老活260610(水)曇

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コラム Fragments of memory

今朝のひと時 『頭の中の断片』を紡ぐ

これから述べることは仮定である。知識の断片で矛盾に満ちているだろう。全体の一部なのだから仕方がない。その仮定を踏まえて真理を説き起こし、老活の人生を論じてみたい。

生命には生きる目的が与えられていて、生きていることだけで生命全体としてのその目的が達成されるようにできている。個人ではなく、全体として、である。その証拠となる事象は生命の営みの中に無数あるが、一つひとつを論証している暇はない。自明の理と言えるほどだから省こう。重要なのは、一個体で全部が達成されるようにできているわけではなく、生命全体として達成される、という点だ。

したがって、あなたはご心配無用、やりたいようにやればいい。ただし、命のある限り、という前提はある。

こうして考えてくると、サルトルの「自由の刑に処されている」という言葉が持つ人間の苦しみも、少し違った角度から理解できてくる。人間は本能だけでは生きられない。外界の変化に意識的に対応しなければならない。その意識を「意識する」ことで、哲学や科学が生まれ、人類の謎解きが始まった。

しかし、この自由にも限りがある。ならば100%の自由とは言えないのではないか。サルトルの言葉も、細部を論じていくと矛盾が露呈してくる。それは当然のことかもしれない。人が1000人いれば、1000通りの異なる考えが生まれるはずなのだから。他人の考えを知識として蓄えても、それはイコール知恵にはならない。知恵とは、自分自身の経験と思索を通じてはじめて結晶するものだ。

では、何もしなくても体が勝手に機能を果たし、生命の目的も果たすようにできているのか、という問いも生まれてくる。確かにそう見える面は多々ある。無意識の世界で、あらかじめ予定された目的の一部分として、人は動いている。それが本能である。

では、意識はなぜあるのか。それは、動物が生きていくために外界の変化に対応しなければならないからだ。意識は道具である。そしてその道具を「意識する」能力を持った人間は、哲学や科学を発達させた。ここに、サルトルの実存主義が立ち現れる。

人間はあらかじめ目的を持って生まれてきたわけではない——これがサルトルの出発点だ。「実存は本質に先立つ」。人は生まれた後に、自らの意味を自らの手で作り出していくしかない。これは一見、生命全体の目的という先ほどの仮定と矛盾するように見える。しかし、矛盾ではないかもしれない。生命全体として目的が達成されるとしても、その一部を担う個体の「役割」は、あらかじめ細かく書き込まれているわけではない。その余白こそが、自由であり、苦しみの源でもある。

老活という言葉がある。老いてなお活きる、という意味で使われるが、私はこれを「老いて、はじめて活きる時間が訪れる」と解釈したい。

若い頃は本能と社会の要請に引きずられながら生きる。子を育て、働き、役割を果たす。その間、「意識すること」の多くは外に向いている。しかし老いとともに、その矢印が少しずつ内側に向き始める。外界への対応を求められる場面が減り、ようやく自分の意識を静かに見つめる時間が生まれる。

これは退化ではない。ある意味での完成に近い。

知識は蓄えてきた。だがそれが知恵になったかどうかは、この静かな時間に問われる。矛盾に満ちた断片を前に、それでも何かを紡ごうとする行為——それ自体が、老活の本質ではないだろうか。頭の中のコラージュを、焦らず、丁寧に、自分の言葉で紡いでいく。答えは出なくていい。紡ぐ過程に意味がある。

生命全体の一部として、やりたいようにやればいい。命のある限り。

2026/6/10 8:00 at SevenEleven Shop

前コラムの推敲による改訂

前コラムは脳内を垂れ流したものであるが、もう少し推敲しまとめた。普通、前稿は廃棄するか掲載しないが、舞台裏も裸に晒す方がより中味の実態を露わすといえる。

生命の目的と老活

これから述べることは一つの仮定である。断片的な知識をつなぎ合わせたものであり、多くの異論もあるだろう。しかし哲学とは、仮定から出発して思索を深める営みでもある。本稿では、その仮定を手がかりに老活について考えてみたい。

第一章 生命全体の目的

生命には何らかの目的が与えられているように見える。

もちろん、それを完全に証明することはできない。しかし、生物が世代を超えて連続し、環境に適応しながら存続してきた事実を見ると、生命全体として一定の方向性を持っているようにも思える。

重要なのは、その目的が個体単独で達成されるわけではないということである。

一人の人間がすべてを成し遂げる必要はない。生命全体として見れば、それぞれの個体は大きな流れの一部分を担っているにすぎない。

そう考えるなら、人生に過剰な責任を背負い込む必要もない。

命のある限り、自分のできることを行えばよいのである。

第二章 本能と意識

人間の身体は驚くほど多くの働きを無意識のうちに行っている。

心臓は鼓動し、肺は呼吸し、細胞は代謝を続ける。

私たちはその一つひとつを意識して命令しているわけではない。

そこには本能と呼ばれる仕組みが存在する。

しかし動物は外界の変化に対応しなければ生き残れない。そのため進化の過程で意識という機能が発達した。

危険を察知し、環境を認識し、行動を選択する。

意識とは生存のための道具なのである。

さらに人間は、その意識そのものを意識する能力を獲得した。

自分はなぜ考えるのか。

なぜ生きるのか。

世界とは何か。

こうした問いが哲学や科学を生み出した。

第三章 サルトルの自由

ここでサルトルの実存主義が登場する。

サルトルは、人間にはあらかじめ定められた本質や目的は存在しないと考えた。

人はまず存在し、その後に自らの意味を作り出していく。

「実存は本質に先立つ」という有名な言葉である。

そして人間は「自由の刑に処されている」とも述べた。

自由であることは喜びであると同時に苦しみでもある。

なぜなら、自分の人生の責任を自分で引き受けなければならないからである。

しかし私には、この自由は完全な無制限の自由ではないようにも思える。

人は身体という制約を持ち、時代や社会の影響も受ける。

生命全体の流れの中で生きている以上、自由には枠がある。

それでも、その枠の中には大きな余白が存在する。

人生とは、その余白に何を描くかという営みなのかもしれない。

第四章 老活という時間

老活とは、老いてなお活きることである。

私は最近、それを別の意味で考えるようになった。

老いてはじめて活きる時間が訪れるのではないか、と。

若い頃は生きることに忙しい。

働き、家庭を支え、社会の役割を果たす。

意識は常に外へ向いている。

しかし老いとともに、その矢印は少しずつ内側へ向かう。

これまで蓄積してきた知識を振り返り、それが本当に知恵になったのかを問い直す時間が生まれる。

矛盾に満ちた断片を前にしても、それらをつなぎ合わせ、自分なりの物語を紡ごうとする。

答えが出なくても構わない。

考え続けること自体に意味がある。

生命全体の一部として生きながら、自分自身の自由も引き受ける。

その両方を見つめながら歩む時間。

それが私にとっての老活なのである。

2026/6/10 V1.0

コラム2 コラージュ 言葉と音楽

文章、ことにビジネス以外の事柄を記述しようとする時、自分が言いたいことのせいぜい2割も述べ切れていないのではないか、と感じることがある。言いたいことはあるのに、うまく言葉にならない、という感覚である。複数のことを同時に並行して伝えたいと思う場面もある。しかし、言葉は音楽とは異なり、和音を奏でることができない。複数の意味を同時に伝えようとすれば、それはただの雑音に成り果てる。これひとつを取り上げるだけでも、言語表現の限界が見えてくる。他人がどうかは知らないが、少なくとも私にとって、言葉だけでは自分の内側を正確に表現することはできない。それでも、表現しないことには記録に残らない。まして、他者に意思を伝えることもできないであろう。それゆえ、言葉の不完全さを補うには、日々の立ち居振る舞いや行動によって示すほかない。他者と真に繋がろうとするならば、言葉以上に、普段の行動が伴わなければならないのである。しかしそうなると、人間関係もおのずと極めて限定的なものになりそうである。

また機会があれば、「では絵画や身振りはどうか」「沈黙は何を伝えるか」という方向へ掘り下げてみたい。

俳句・川柳・短歌 コラム

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梅雨に入り 動きをじっと 観る老爺

長袖を 外せぬ老爺は 梅雨の中

人生100年時代に挑戦[老活]

▶︎健康記録 今朝の体調 70/100 深夜覚醒回数 4

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→朝飯前のウォーキングで目を覚まして、遅い朝食を済ませる。ウォーキング開始前に軽食を摂り、薬を飲む。今日で眩暈に対応して眼科から処方された薬はなくなる。

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耳鼻咽喉科受診メモ / 一週間ほど眩暈は起きていない。診断では耳が原因の突発的な目眩は治っても放置で良い。再発するようなら内科に相談するよう助言された。☪️結局、症状のある時でないとわからない、ということのようだ。

転んだ‖ 夕食タイム中にあまりに大きなくしゃみをして転んだ。隣の人に迷惑をかける(ほどではないが、、)高齢者が転んではいけない。寝たきりになる大きな要因になる。なぜ転んだのか?狭いキッチンのため、椅子を組み立て式の円形椅子を使っていたからだ。これは良くないのですぐに背もたれのある椅子を持ってきて換えた。