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12:00-13:00 東飯能駅にある市民センターで「第11回独楽典<中美埼玉支部会員展>」が展示されていた。22点、どの作品も『素晴らしい』と心から感嘆できる作品であった。

しかし、私には美術の素養が乏しい。ゆえに、素晴らしいと感じたその直感すら、識者から見れば浅はかなものに映るのではないかと、どこか気恥ずかしくなる。
この種の洗練された文化に接すると、自分とは異なる人種の営みを覗き見ているようで、どうにも居心地が悪い。貴族を前にした田舎者のように、自らの文化的な貧しさが心の鏡にありありと映し出されるのである。結局は場慣れの問題なのかもしれない。せめて「下手な鉄砲も数撃てば当たる」と笑い飛ばせるような、厚顔無恥な軽やかさが欲しいものだ。
2026/4/3 東飯能市民センター内にて記す。
▶︎ノリさん投稿
大樹殿 春の装い 凛と立つ
春だから コージーコーナー 列ができ
80歳から考える「理想の最期」
はじめに
人生八十年と言われた時代はすでに過去のものとなり、今ではこのコーナーで掲げるように「人生百年時代」という言葉が盛んに使われています。しかし、長寿社会になったせいか、もう一つの問いが静かに浮かび上がってきました。それは「人はどのように人生を終えるのが幸せなのか」という問題です。老活とは、自分らしい人生の最終章を考える営みでもあります。
医療が変えた死の姿
かつて人は、家の中で家族に囲まれながら自然に亡くなることが多くありました。ところが現代では、多くの人が病院で人生の最期を迎えます。人工呼吸器や点滴、胃ろうなどの医療技術は命を長く保つ力を持っていますが、その一方で「生きること」と「延命されること」の境界が見えにくくなりました。医療が進歩するほど、人は自分の最期をどう迎えるかを考えざるを得なくなったとも言えます。
理想の最期とは何か
理想の最期は人それぞれです。しかし多くの高齢者の調査では、共通する希望がいくつかあるようです。
・大きな苦痛がないこと
・家族に過度な負担をかけないこと
・できるだけ自然な形で人生を終えること
つまり、人が望んでいるのは「長く生きること」ではなく、「穏やかに人生を閉じること」なのです。
尊厳死という選択
尊厳死とは、命を早めることではありません。回復の見込みがない状態で、過度な延命治療を望まないという意思表示です。これによって、自分の最期の在り方をある程度自分で決めることができます。また、家族が医療判断で苦しむ状況を減らすことにもつながります。
老活としての意味
老活とは、健康づくりや趣味を楽しむだけではありません。よく雑誌などで、如何に老後を楽しむか、とか、老後こそ最高の幸せ、などというキャッチフレーズが目立ちます。しかしながら、私はそこにはあまり共感しません。人生の終わり方を静かに考えることが老活の大切な一部です。死を見つめることは暗いことではなく、むしろ「今をどう生きるか」をはっきりさせる作業でもあります。死の淵からこそ奥深い知恵を汲み取ることができるのではないでしょうか。人は有限の存在だからこそ、一日一日を大切に生きることができるのです。
おわりに
八十歳を過ぎて人生を振り返ると、若い頃には見えなかった景色が見えてきます。成功や失敗よりも、「どのように生きたか」が大切だったと気づく人も多いでしょう。人生の最期を考えることは、最後まで自分らしく生きるための静かな道の選択なのです。
2026/4/3 自宅にて記す
