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人はなぜ他人と比較してしまうのか ― サルトルの実存主義(第12回)

人はなぜ、他人と自分を比べてしまうのだろうか。
現役時代を振り返ると、収入、地位、能力、そして人生の充実度……。特段意識せずとも、常に「他人の姿」という物差しで自分を測っていたように思う。それが心地よいものではなく、合理的な心理でもないと分かっていても、私たちは世間の常識という波に抗うことが難しい。
この感覚は、ジャン=ポール・サルトルの言う「他人のまなざし[003]」と深く関係している。サルトルによれば、人間は他者の視線にさらされることで、自分自身を「物」のように固定された存在(客体)として意識してしまう。他人と比較すること自体は、社会の中で自分の位置を知ろうとする時、避けられない構造なのかもしれない。
しかし、真の問題は、その比較に「自分の価値」を委ねてしまうことにある。他人の評価や相対的な位置づけによって人生の意味が決まるとすれば、それは自らの自由を放棄したことに他ならない。頭ではその無意味さを理解していても、大衆の目が、あるいは学歴といった記号が、知らず知らずのうちに私たちを縛り付ける。
実存主義の立場では、人間の価値はあらかじめ決まっているものでも、他人との比較で定まるものでもない。「実存は本質に先立つ」という言葉通り、私たちがどのように生き、どのような選択を重ねるかによって、自らの価値を刻一刻と創り出していくのである。
老年という地点から人生を俯瞰すれば、本来、人生は誰かと競うものではないことに容易に気づく。各々が異なる条件の中で、それぞれの自由に基づいた選択を積み重ねてきた。その結果があるだけなのだ。
実存主義は、他人のまなざしに縛られるのではなく、自分自身の基準で生きることを促している。そう考えると、人生とは他人との比較ではなく、自分との対話の連続なのではないか。
[比較]
| 比較に囚われた状態 | 実存主義的な生き方 |
|---|---|
| 他人のまなざしを基準にする | 自分の選択を基準にする |
| 価値を「評価」される(受動) | 価値を「創る」(能動) |
| 社会の物差しで測る | 自分の状況を受け入れる |
2026/4/18 12:00
▶︎ノリさん投稿
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