他人のまなざしから自由になれるのか ― サルトルの実存主義(第13回)

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サルトルを学ぼう [013]

他人のまなざしから自由になれるのか ― サルトルの実存主義(第13回)

白内障をはっきり認識し始めてから3、4ヶ月になる。同じ世代で60歳代で発症した人が身近にいた。しかし、自分が経験しないと、それがどんなものか実感はないし真の理解はない。つまり、知識として「そんなものか」と記憶する程度である。

しかし、経験はしなくても、知識はきっとその時、大いに役立つことになる。

そんなわけで、今朝もサルトルから学ぼうと自らの経験に照らし合わせながら述べてみたい。

人は他人のまなざしから完全に自由になれるのだろうか

ジャン=ポール・サルトル の考えに従えば、その答えは「否」である。

    人間は他者との関係の中で自分を意識する存在であるという。そうすると他人の視線を完全に消し去ることはできない。

では、私たちは常に他人に縛られたまま生きるしかないのだろうか。

    サルトルはそうは考えなかった。問題は、まなざしの存在そのものではなく、それに対してどのような態度を取るかにある。

他人の評価を絶対的な基準として受け入れてしまえば、人は自らの自由を失う。

    しかし、他人の視線があることを前提にしつつ、それに意味を与えるのは自分自身であると自覚するならば、そこには主体的な生き方の余地が残される。

老年の視点から振り返れば、他人の評価に振り回されていた時間は決して少なくなかった。

    しかし同時に、その評価をどう受け止めるかを選ぶこともできたはずである。学ぶことの意義が、ここにある。ちょっとした気づきの量が我々を描く目標に近づける。

実存主義は、他人のまなざしを消すことを求めるのではない。それを引き受けたうえで、なお自分の生き方を選び続けることを促す哲学なのである。

ここで思い出されるのが、孔子 の言葉である。

孔子は『論語』の中で、人生の歩みを段階的に語っている。「十五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず」とある。

特に注目すべきは、人は年を重ねることで完成するのではなく、むしろ経験を通じて自分を見つめ直し続ける存在であることが示されている。

サルトルが説く「自由に選び続ける人間」と、孔子の語る「学び続ける人間」は、表現こそ異なるが、どちらも人生を変化し続ける過程として捉えている点で通じている。

老年とは、他人のまなざしから逃れることではなく、それを受け止めながらも、自ら学び、自ら選び続ける時間だということであろう。

学ぶとは、他人の価値観に従うことではなく、自分の生き方を問い直し続けることである。

2026/4/19 8:00 at SevenElevenにて